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観劇:「モリー先生との火曜日」~加藤健一事務所公演

2013-06-08-Sat
いい芝居でした。

加藤健一の出ているお芝居は「木の皿」「詩人の恋」などを見てきていますが、いずれもテーマ性のある作品でわたしとしては好きなのですが、見終わったあとの爽快感というか、幸福感は、この「モリー先生との火曜日」が一番でしょう。
 → 過去記事:観劇:「木の皿」~加藤健一事務所公演
 → 過去記事:観劇:「詩人の恋」~加藤健一事務所公演
 
「木の皿」は老人問題、「詩人の恋」は戦争犯罪がテーマだったと思いますが、何か、出口がない沈鬱なムードになりがちでした。もちろん、現実の世界にはそういうことも少なくありません。そして、今回は難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)になった老人の話です。もちろん、それは深刻な話で、テーマは「死」もしくは「大切な人との永遠の別れ」ということになるでしょう。そういう意味では「悲劇的な話」の要素が強いはずなのですが、しかしながら、おそらく見終わったあと、すべての人が温かい気持ちを抱いて、生き生きと劇場をあとにしたでしょう。

この難病ALSも、先日ノーベル賞を受賞した山中教授たちの研究しているiPS細胞が、治療の道を大きく開くのではないかと期待されています。



「不治の病」ではなく、治る病気になる日も近いことでしょう。iPS細胞の研究はすばらしく、そして、多くの人を直接的に幸福にするということではあるのですが、これまた演劇は演劇で、別の意味で多くの人たちを勇気づけ、前向きにさせる、まさにそういう作品ということも言えると思いました。

moripost.png

→ 加藤健一事務所 ホームページ
→ 加藤健一事務所の「モリー先生との火曜日」の案内ページ

その他の「モリー先生」の情報はこちら。
→ Wikipedia による
→ Amazon(モリー先生) による

ちなみに、この芝居は実話を元にした二人芝居です。原作者のミッチの実体験を元にしています。原作者は当然ながら語る側で、「モリー先生」と「火曜日」をともに過ごしたわけです。主人公はモリー先生なんですが、今回の舞台では、実際の父と息子がそれを演じています。加藤健一(大学教授モリー先生役)と加藤義宗(原作者のミッチ役)は物語の上では大学の先生と学生なんですが、実際の生活では親子であり、当然ながら今まで生きてきた実際の親子としての生活があったのだろうと思います(実は、そのあたりは詳しくありませんが、舞台を見る限り、それなりに良好な親子関係の中にあったと想像します。なんというか、こういうときに引き合いに出すのはなんですが、先日お亡くなりになった三國連太郎と佐藤浩市親子みたいなことはないと思います。あくまでわたしの推測で、確認したわけではありませんけれど)。

それを知って、この舞台を見ていて一つの困惑がありました。そもそもは他人の設定のはずなのに、親子みたいだなと感じてしまうのは、配役の偶然によるものではないのかということです。それは原作者の意図なのか、それとも演出サイドというよりは、配役の妙なのかという疑問をひっかけながら見ることになったのです。それは混乱でした。正直、ここがなかなかすっきりといかなかったところです。

ところが、話も相当進んだところで、教授の方から「君を息子にしてもいいと思ったくらいだ」という言葉に触れてからは、なんだかわだかまりがすっと消えたような気がしました。親子のように感じるのは、そもそも役者が親子だったからではなくて、「教師と教え子の二人が、実の親子のように心を通わせる話」だったということです。

ああ、それは当然でした。舞台に立っているときは親子でもなんでもなくて、あくまで二人の役者なんですね。いったい、どこの誰が、「この二人は実の親子なんだ」という余分な知識を、したり顔でわたしに語ったのか、その犯人探しをしたいくらいです(笑)。知らなくっても全然困らない、少なくとも今回の観劇では、妨げになるような知識だったかなとさえ思ってしまいました。

しかし、ミッチ(義宗)はピアノがとても上手でした。実際の舞台では生演奏で聞かせてくれます。それは「詩人の恋」で加藤健一のピアノを思い出させました。親子でピアノが弾ける役者だなんて、そして息子のピアノで躍る父の素敵なダンス……。それが「良好な親子関係」とわたしが推測した、一つの大きな理由でした。

すばらしい作品です。ぜひ、劇場で御覧ください。



ちょっとどうでもいい「親子」にこだわってしまったでしょうか。しかし、これは大切なところだろうと思います。

正直なところ、幕間での感想は、いいのだけれど暗すぎる。加藤健一はこういうのが多いんだよな。もう少し現代的というか、今の若い世代にも合うような今風の話がいいと思うのだけれど……。これが、わたしの感覚を端的に表す言い方かどうかわかりませんが、わたしが不満に感じたことを、そのまま隣の席の友人に言いました。彼はわたしよりも20歳近く年上で、ニコリとしながら、「う~ん」とは言いましたが、同意はしませんでした。

ま、わたしは、ALSという特殊な病気を扱っているところが、同じ「死」を扱うにしても、やや、現実離れした感じを抱いたのです。

しかしながら、最後まで見たときの感覚は全く違いました。

ALSというのは難病で、そういう点ではやや特殊な感じがあるといえばあるのですが、自分の罹った病気が治りにくく、このまま一直線に死に至る可能性が強いといいうことは、むしろ、テーマを明確にさせる上では必要なことでした。仮にフィクションであったならば、ま、まさに効果的な病気の選び方と言えるでしょう。もっとも、これは実話でした。簡単に治療できない病気であったからこそ、必然的に、迫り来る死を見つめなければならなかったのですけれど。

ここは表現が難しいのですが、ものごとを深刻に考えることはいくらでもできるのですが、深刻に考えたあげく行き詰まって終わるくらいなら、ま、ほどほどに考えてそこそこ楽しく生きる方というか、もう少し建設的に言葉を選べば、それを現実としてありのままにとらえて、無駄にあがくよりもだから日々をどう有意義に過ごすかを考えたほうがいいということになるのでしょうか。もっとも、モリー教授は、もっと自覚的に、病気と診断されようとされまいと、死を感じながら日々を送るようにと、仏教的なことを言っているのではありますが。

あまり拡散するとあれですから、話を親子に戻します。

四年前に父を肺癌で亡くしました。

ミッチがモリー先生の余命がわずかであることを突然知ったところは、父と離れて暮らしていたわたしが、父からの不意の電話で父の病名を知らされるのに似ていました。大学に入った年から、学生生活もその後就職してからの生活も、ほとんど実家に住んではいなかったわたしは、所謂盆正月も、別に両親に会いたいから戻るというよりは、「義理」で戻るという感じでした。親子の対立というよりは、親子の(なんとなくの)断絶というものはずっとありました。父から学んだことも、それこそ子どもの頃からたくさんあったのでしょうけれど、それは、このミッチのように、選んで講義に出たとういのでは違いますけれど、濃密な時を過ごしたという点では、このお芝居とかぶって見えました。

約三年間の間、今のうちと実家と職場と病院と、飛行機ではありませんでしたが、私はまさにこの芝居のように、看病と触れ合いとをしながら、死への準備をし、看取りの過程を過ごしました。このお芝居は、まさしく、わたしと父の生活のおさらいのようでした。

だから、父を亡くすまでは、なんとも胡散臭いフレーズに感じられた「心の中で生きている」とか、「いつもそばにいて見守っている」とか、「この場所に来ると故人と語ることができる」みたいな言葉も、たびたび実感しました。モリー先生の最期のお願いは、あまりに陳腐で、そして、素晴らしくて涙がでるほどでした。

父に限らず、夫や妻を亡くした人、兄弟姉妹を亡くした人、大切な人を亡くしたことのある人は多く、そのほとんどの人が、きっとこの温かな気持ちを理解し、この場で共有したのだろうとわたしは思います。そして、それは幸福なことだと思いました。

同時に、父を亡くしてなかった頃のわたしが、この芝居を見てここまで共感したろうかと、少し寂しく思うのです。芝居のかなり初めのほうで、モリー先生がミッチに言うのです。「年をとることは悲しいことではない。それは経験したということだ。君の何倍もいろんなことを経験し、知っているということだ」みたいなことを。もちろん、モリー先生は、この温かな気持ちを知っていたから、ミッチに味わわせてあげたかったのですよね。

あ、また、泣けてきた。今回は、ここまで。

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