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映画:「キャタピラー」~DVDで

2011-09-16-Fri
先日、江戸川乱歩の「陰獣」をフランス人の監督が撮った「INJU」のレビュー記事を書いたのですが(→過去記事:「映画:「陰獣~INJU~」~DVDで」)、今回も乱歩つながりで「キャタビラー」を見たので、そのレビューのはずだったのですが、ちょっと、事情が変わりました。

というのは、乱歩の「芋虫」とはそうとう似ている話ではあったのですが、全く別の話でした。わたしはてっきり江戸川乱歩の「芋虫」の映画化だと思っていました。ああ「キャタピラー」としたのは、なかなかおもしろいアイディアだと内心に感心したくらいです。だって、小説の映画化にあたって、忠実な映画化というのは割合とすくなくて、テーマ性は共通しているものの、解釈がちがったり、犯人が違ったりしていることは、ままあることでした。全く忠実な映像化はそれはそれで意味がないとはいいません。おもしろい作品ができるだろうし、興行的にも成功するかもしれませんが、監督や脚本家の創作性というか、表現者としての意義はどの程度あるのかと思っています。だから、わたしは、原作と違う!という理由で作品を批判するという立場はあまりとりません。過去の作品を現代的にアレンジして解釈することに、むしろ意味があると感じ、それが成功しているのであれば、原作と違っていても評価できると考えています。だから、この「キャタピラー」が乱歩の「芋虫」を若松
監督が解釈したということであれば、素晴らしいと思いました。

ところが、作品を見てびっくりしたのは、どこにも乱歩の名前がなかったことです。ええ? ここまで設定を似せていて、乱歩の名前がなくて果たしていいものか? パクリではないかとさえ思ったほどです。乱歩のファンとしてはその点が不愉快でした(もっとも、似ているのは設定であって、テーマは全く別というか、少なくともわたしは、正直乱歩の「芋虫」の方がやっぱりすごいなと感じました。うまく言えるかどうかはわかりませんが、その理由はあとで述べるつもりです)。



なぜ、乱歩の名前がないかという点については、こんな記事がありました。

『芋虫』という小説自体、発表当時反戦的内容と勲章を軽蔑するような表現が物議をかもした小説。乱歩は「物のあはれを表現しただけ」とかわしていたが。また、言語表現的にも、今の"自主規制"時代では絶対に出版できない内容。そのあたりのしがらみで『芋虫』が原作と公に言いにくい諸事情があるのかなと思っていたら、どうもそれ以前の問題だったようだ。実際、当初は『芋虫』の映画化として企画されていた。若松監督が日本文藝家協会にタイトル使用の許可を求めたところ、150万円を請求された。「(小プロダクションゆえ)そんな金は払えない」と監督が断ると、「じゃあ、50万円でいいです」とあっさりダンピング。「バナナの叩き売りか!」と若松監督は激怒。題名を英語のキャタピラーに変え、脚本も『芋虫』に抵触しないように書き換えたという。こういうエピソード、若松監督らしいなと思う。
→ 映画のメモ帳+α:「キャタピラー


「バナナの叩き売りか!」と監督が激怒して、「原作者乱歩」を消し、脚本を書き換えたんだそうですね。う~む。そうなんだ……。確かに、「芋虫」とは似て非なる作品になっています。逆に、この内容で乱歩の「芋虫」が原作だと謳い文句にされてたりしたら、それはそれでひどいと思いますね。

いろいろな読み方があると思いますが、「芋虫」のテーマに「反戦」はありません。それは、乱歩自身が反戦的思想を持っていたかどうかということではなくて、作品のメインテーマとして「反戦」は成り立たないと思いました。この「キャタピラー」を見ると、その差がはっきりします。

若松監督の反戦の思想とはベクトルが全く違います。そりゃ、確かに、戦争は悲惨であり、軍神の妻になんてなりたくありませんよね。軍神でなくてもいいから、五体満足健康な夫を返してほしかったとすべての妻は思っただろうと思います。いや、父も母もそう思ったのです。大けがを負っても命拾いして戻った方が幸せだったか? それともそのくらいなら、いっそ死んだ方が幸せだったのか? それは難しい問題です。時代ということもあります。差別意識の問題でなくて、インフラとして。現代のように理解が進み、科学の進歩により環境が整備されている場合と、農家をやるにしても、機械化されておらず人の力が頼りであった時代に、四肢を失った男が戻ってきても、1どうにもならなかったであろうということも大きく関係します。愛すべき家族が戻ってきたという喜びなど、ふっとび大きすぎる重荷を背負うことになったと感じてもやむを得ないと思います。

それは、家族だけではなく、「軍神芋虫」と化した本人も同じだったと思います。いかに、軍神様として崇められようと、四肢を失うに至る戦地での体験は忘れられず、帰郷してもその記憶から逃れられず苦しみます。眠ることと食うことと、やることの生物としての三大本能を残したままなんですね。寺島しのぶ扮する妻シゲ子は、けなげにもそれを受け入れ、まさに必死で夫のために生きようとします。いや、「軍神の妻」などになってしまったら、立派にその役目を果たす以外に選択肢などありません。逃げ出すことはもちろん、泣き言をさえ許されなかったでしょう……。

戦争のもたらす様々な悲劇を、芋虫と化した軍神と妻という極端な例で描いているわけです。軍神でなく、生死すらも不明……。そんな家族はいくらでもいて、家族の分だけ不幸があった。それが戦争です。映画「キャタピラー」は反戦のメッセージは、作品の冒頭から、エンドロールまで、そして公開の日程でも強く示されています。




ところが、乱歩の「芋虫」のテーマは全然違います。

反戦なんてことは無関係です。四肢を奪われた夫と妻の愛を描くために、そこに戦争があったくらいのものなのでしょう。設定の自然さがあれば、戦争でなくてもよかったとさえ思います。かつて愛し、たまたま戦争で四肢を失って戻ってきた夫とどう生きていくか……。社会がどう援助するかという福祉的な視点さえない、きわめて個人的な、内面的な問題です。四肢を奪われ、話すこともできなくなった愛する夫に対して、女盛りの妻がどう関わり、どうしていいくか……。そして、夫はそれをどう受け入れていくのか……。夫婦二人の問題です。 

それは、残酷な愛の世界であり、切なく哀しい性の世界です。所謂SM的な官能世界にもふれながら、「仏性」と言ってはおおげさかもしれませんが、絶望だけでなく人を信じ、愛することのできる結末に待っています。

こうなると好みの問題かもしれませんけれど、「芋虫」と化した夫とその妻という題材を元に、徹底的に反戦を訴え、外へ外へとエネルギーを向けていった若松監督と、社会と断絶し、ひたすら二人だけの世界へと入り込んで、完結した乱歩の世界は、ベクトルがまるっきり逆なんです。

そして、自分をこの軍神と妻のどちらに投影させたところで、戦争が嫌ということよりも先に、やっぱりどうやって生きていくか、どうやって愛していくかという問題が先になってしまって、どうしても、そっちがテーマになってしまうような気がしますね。そのくらい、人間力が試される設定であって、そういう設定になるのは戦争だけとは限らないってことなんですね。 

戦争に是認するとかそういうことではなくて、この夫婦の愛の物語の前では、反戦はかすんでしまうだろうって思ったのです。

いずれにしても、改めて乱歩のすごさを痛感させられる映画でした。どっちが先でもいいですけど、乱歩の「芋虫」も合わせてお読みくださいって感じです。

最後になりましたが、寺島しのぶがベルリン映画祭で最優秀女優賞を獲得したのは、ファンとしては喜ばしい限りです。

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