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「国宝薬師寺展」で法話を聞く~岐阜市歴史博物館
2011-09-12-Mon
台風12号の影響で、カーポートの屋根が一枚ぺロリと剥がれてしまったのですが、ま、そのままにしてちょっと逃げ出して、展覧会に行くことにしました。どうなんでしょう、学校の夏休みが終わって、地域や学校では運動会シーズンのせいか、高速道路は空いていて、岡崎の渋滞ポイントもすいすいと抜けられて、1時間と少しで岐阜市歴史博物館についてしまいましたよ。
今回は「吉祥天女」と「聖観世音菩薩」の二つの国宝を間近で拝めるというのが大きな魅力で、ま、ポスターにもなっています。この二つが今回の目玉ですね。

→ 岐阜市歴史博物館:「国宝 薬師寺展」
展示に合わせて、薬師寺の僧によるガイダンス法話(?)も行われていて、自称薬師寺で一番話の上手な大谷師の、元気いっぱい、楽しくありがたい法話を拝聴することができました。
吉祥天女像は「麻布著色吉祥天像(→wikipedia)」とも言って、奈良時代から薬師寺に伝わるものです。法話風ガイダンスによれば、明治初期、フェノロサたちが日本に来て、日本の芸術品のいくつかを見て回り、本国に持ち帰ってしまうというようなことがあったけれど、その当時薬師寺は貧しくて、近隣の農家に借金をしていた。この「吉祥天女像」は借金の形にとられていて何を逃れたということだそうです。ありそうな話でもあり、半分フィクションのようにも思われるのですが、要は、いろいろな危機を乗り越えて、今、こうしてここにあるということです。
法話風ガイダンスの受け売りですが、今に伝わる初詣では、神社よりも寺院で行われていた行事で、たとえばこの吉祥天女像の絵が信仰の対象で、この左手の上にある、赤い珠に願をかけにくるということだったのだそうです。そんなありがたい絵が、普段は薬師寺では非公開状態で、特別展示で公開されたとしても分厚い防護ガラス守られているのですが、今回は目の高さで間近に拝むことができます。ほんとうにじっくりと拝めます。
次は、同じく国宝の「聖観音立象」。

これも間近で見られます。上のWikipediaの写真には「光背(こうはい)」がありますが、今回の展示には光背はなく、観音像自体をぐるりと一周見ることができるのです。これも法話風ガイダンスからですが、この仏さんの像は、前の姿はもちろんありがたいが、後ろ姿がとてもきれいで、横顔もまたいいんで、ぜひどちらの角度からも「かたよらない心」と念じながら見て下さいということでした。この「かたよらない心」というのが実はなかなか難しい。何ものにもとらわれない、自分にこだわらない「かたよらない心」の難しさ、そういうことを知らせてくれる、大谷師のガイダンス風法話でした。大谷師は、果たして一番かどうかはわかりませんが、とてもお話が上手で勉強になりました。
わたくし事ですが、父を亡くしたころから、というか、父を看病し始めたころから、というか、たぶんその前からも、仏教には関心があったのですが、それは、信仰というほどのものではないのですが、果たして仏陀は何を悟り、衆生をどのように導いてくれようとしたのか、それを知りたかったのです。もっともそれは言葉の上だけで、だからといって真剣に修行しているわけではなくて、気まぐれに、ときどきネットを見たり、考えたり、本を読んだりしているだけで、そんな方法で正しく悟れるはずはないのですが、ま、今までで一番記憶に残っている言葉は「すべての生き物は生まれて死ぬ」でした。(→過去記事:「「すべての生き物は生まれて死ぬ」~仏陀の言葉」)
この過去記事では「て」なんて助詞にこだわったのだけれど、「生まれる」ということがあって、それと等価で「死ぬ」ということがあるというような意味合いが「て」にあるのだろうと直感的に思ったのですが、その後折にふれ考えて、しみじみと、この世に生きとし生けるものは、最初から命があったわけではなくて、生まれたもので、そしてて死ぬものだということなんだということが、よわかったのですね。ちょっとくどくなりますが、ややもすると生きているのが当たり前だと錯覚しがちなのですが、母より生まれたから生きているということです。つまり、生まれる前があって、死後があって、生きている今があるってことなんですね。
人は、自分の命が生まれる前にもこの世があったことを忘れがちだし、自分の死後にもこの世が続いていくことを忘れがちなんです。死んだら自分が行くのはあの世であって、この世とは無関係の世界みたいな感じでいるとしたら、ひょっとしたらそれは間違っているんじゃないかと思うんですね。
今回の法話風ガイダンスでも、わたしたちの死後について成仏するとか、極楽に行くだとかそういう話でなくて、子孫が生きていき、わたしたちは先祖になるというような話をしてもらったのは、わたしの考えにピッタリでした。ひょっとしたら、わたしの独善的な理解かもしれませんが……。
さて、長くなりそうですので、最後にもうひとこと。やはり法話風ガイダンスからなんですが、薬師寺の宗派は法相宗で、その開祖は慈恩大師だそうです。慈恩大師は日本ではあまり知られていないんですが、玄奘三蔵が最も信頼していた弟子の一人で、ともに般若心経を訳した人物だそうです。その、慈恩大師の肖像画(→絹本著色慈恩大師像)も特別展では見られます。失礼かもしれませんが、眼鏡をとった山ちゃん(南海キャンディーズの)を思い出しました。ああ、罰当たりかなぁ~。
「般若心経」を訳すにあたり、玄奘三蔵と慈恩大師は観音菩薩のことを「観自在菩薩」としたと大谷師はおっしゃいました。言うまでもなく、一般的には観世音菩薩と訳されるのですけれど、もちろん意味あって「観自在菩薩」とされたのですね。ま、そこに解釈が生まれるわけですが、ひとつ「自分の在り方を観る」と解釈して観音像を拝みましょうという話になるわけです。自分の在り方といっても、心の在り方ですね。望ましい心の在り方とはすでに書きましたが「かたよらない心」です。「かたよらない心」と繰り返し唱えながら、観音像を拝むのがいいと教えてくださいました。
わたしとしては、美術展を見るような気持ちで見に行ったのですが、ガイダンス風法話のおかげでとってもいい仏教の勉強になったと思い、感謝しています。
ちなみに、最近読んでる仏教の本はこれ。若者に語りかけるような超訳です。
今回は「吉祥天女」と「聖観世音菩薩」の二つの国宝を間近で拝めるというのが大きな魅力で、ま、ポスターにもなっています。この二つが今回の目玉ですね。

→ 岐阜市歴史博物館:「国宝 薬師寺展」
展示に合わせて、薬師寺の僧によるガイダンス法話(?)も行われていて、自称薬師寺で一番話の上手な大谷師の、元気いっぱい、楽しくありがたい法話を拝聴することができました。
吉祥天女像は「麻布著色吉祥天像(→wikipedia)」とも言って、奈良時代から薬師寺に伝わるものです。法話風ガイダンスによれば、明治初期、フェノロサたちが日本に来て、日本の芸術品のいくつかを見て回り、本国に持ち帰ってしまうというようなことがあったけれど、その当時薬師寺は貧しくて、近隣の農家に借金をしていた。この「吉祥天女像」は借金の形にとられていて何を逃れたということだそうです。ありそうな話でもあり、半分フィクションのようにも思われるのですが、要は、いろいろな危機を乗り越えて、今、こうしてここにあるということです。
法話風ガイダンスの受け売りですが、今に伝わる初詣では、神社よりも寺院で行われていた行事で、たとえばこの吉祥天女像の絵が信仰の対象で、この左手の上にある、赤い珠に願をかけにくるということだったのだそうです。そんなありがたい絵が、普段は薬師寺では非公開状態で、特別展示で公開されたとしても分厚い防護ガラス守られているのですが、今回は目の高さで間近に拝むことができます。ほんとうにじっくりと拝めます。
次は、同じく国宝の「聖観音立象」。

これも間近で見られます。上のWikipediaの写真には「光背(こうはい)」がありますが、今回の展示には光背はなく、観音像自体をぐるりと一周見ることができるのです。これも法話風ガイダンスからですが、この仏さんの像は、前の姿はもちろんありがたいが、後ろ姿がとてもきれいで、横顔もまたいいんで、ぜひどちらの角度からも「かたよらない心」と念じながら見て下さいということでした。この「かたよらない心」というのが実はなかなか難しい。何ものにもとらわれない、自分にこだわらない「かたよらない心」の難しさ、そういうことを知らせてくれる、大谷師のガイダンス風法話でした。大谷師は、果たして一番かどうかはわかりませんが、とてもお話が上手で勉強になりました。
わたくし事ですが、父を亡くしたころから、というか、父を看病し始めたころから、というか、たぶんその前からも、仏教には関心があったのですが、それは、信仰というほどのものではないのですが、果たして仏陀は何を悟り、衆生をどのように導いてくれようとしたのか、それを知りたかったのです。もっともそれは言葉の上だけで、だからといって真剣に修行しているわけではなくて、気まぐれに、ときどきネットを見たり、考えたり、本を読んだりしているだけで、そんな方法で正しく悟れるはずはないのですが、ま、今までで一番記憶に残っている言葉は「すべての生き物は生まれて死ぬ」でした。(→過去記事:「「すべての生き物は生まれて死ぬ」~仏陀の言葉」)
この過去記事では「て」なんて助詞にこだわったのだけれど、「生まれる」ということがあって、それと等価で「死ぬ」ということがあるというような意味合いが「て」にあるのだろうと直感的に思ったのですが、その後折にふれ考えて、しみじみと、この世に生きとし生けるものは、最初から命があったわけではなくて、生まれたもので、そしてて死ぬものだということなんだということが、よわかったのですね。ちょっとくどくなりますが、ややもすると生きているのが当たり前だと錯覚しがちなのですが、母より生まれたから生きているということです。つまり、生まれる前があって、死後があって、生きている今があるってことなんですね。
人は、自分の命が生まれる前にもこの世があったことを忘れがちだし、自分の死後にもこの世が続いていくことを忘れがちなんです。死んだら自分が行くのはあの世であって、この世とは無関係の世界みたいな感じでいるとしたら、ひょっとしたらそれは間違っているんじゃないかと思うんですね。
今回の法話風ガイダンスでも、わたしたちの死後について成仏するとか、極楽に行くだとかそういう話でなくて、子孫が生きていき、わたしたちは先祖になるというような話をしてもらったのは、わたしの考えにピッタリでした。ひょっとしたら、わたしの独善的な理解かもしれませんが……。
さて、長くなりそうですので、最後にもうひとこと。やはり法話風ガイダンスからなんですが、薬師寺の宗派は法相宗で、その開祖は慈恩大師だそうです。慈恩大師は日本ではあまり知られていないんですが、玄奘三蔵が最も信頼していた弟子の一人で、ともに般若心経を訳した人物だそうです。その、慈恩大師の肖像画(→絹本著色慈恩大師像)も特別展では見られます。失礼かもしれませんが、眼鏡をとった山ちゃん(南海キャンディーズの)を思い出しました。ああ、罰当たりかなぁ~。
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「般若心経」を訳すにあたり、玄奘三蔵と慈恩大師は観音菩薩のことを「観自在菩薩」としたと大谷師はおっしゃいました。言うまでもなく、一般的には観世音菩薩と訳されるのですけれど、もちろん意味あって「観自在菩薩」とされたのですね。ま、そこに解釈が生まれるわけですが、ひとつ「自分の在り方を観る」と解釈して観音像を拝みましょうという話になるわけです。自分の在り方といっても、心の在り方ですね。望ましい心の在り方とはすでに書きましたが「かたよらない心」です。「かたよらない心」と繰り返し唱えながら、観音像を拝むのがいいと教えてくださいました。
わたしとしては、美術展を見るような気持ちで見に行ったのですが、ガイダンス風法話のおかげでとってもいい仏教の勉強になったと思い、感謝しています。
ちなみに、最近読んでる仏教の本はこれ。若者に語りかけるような超訳です。
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