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萩原朔太郎の「死なない蛸」を読み返してみる。

2011-04-19-Tue
こんな話を見つけました。

ニュージーランドで猟奇的な事件があった。

28歳の男性が自分の指を切り落とし、野菜と共に調理し、食べた。
カンニバリズム(人間が人間の肉を食べる行為)は宗教的背景も含め歴史的には様々な事件があるのだろうが、自己カンニバリズムと呼ぶべきケースは稀少で、世界でもこれまでに8件しかレポートされていない。
 → Platinum Telescope:「【猟奇的】 自分の指を切断して食べたうつ病男性」(2011/04/19)

ちと生々しくなるでしょうか、こんな内容です。

行為に至る前、男は深刻な不眠症に陥り、自殺観念や指を切り落とす行為について数日間考えをめぐらせていたようだ。この観念から逃げ出す為、最終的に彼は電動ノコギリの刃で指を切り落とし、野菜と共に調理してその肉を食した。
 → 同記事


こういうことって、人間でもあるのですね。いや、ヒトは最も雑食な生命体なので、ま、あるとしたらヒトが一番ありそうなんですが、ま、記事によるとこれまでに8件の報告があるようです。このご時勢、自傷、自殺は恐ろしいほどの数がありますが、さすがに調理して食べるというのは、想像を絶するエネルギーが必要でしょう。恐ろしいです。

「人間でもあるのですね」と書いたのは、わたしが、蛸は飢えると自分の足を食すると聞いたことがあったからです。いつどこで聞いたのか忘れたのですが、高校時代に読んだ、萩原朔太郎の詩で知ったのかもしれません。けっこう知られた話らしいんで、それ以前から知っていたのかもしれませんが……。朔太郎は、おそらく今でもわたしの精神に巣食っている、我が青春の作家の一人です。

朔太郎の「死なない蛸」はこんな詩です。
 → 「死なない蛸」(http://nsss.tumblr.com/post/592972569)
 → 「死なない蛸」のとってもいい朗読のあるページ(「しゃべりたいむ」)

旧字旧仮名が読みにくい方のために、 
 → ヤフー!知恵袋:「萩原朔太郎の死なない蛸の解説をしていたたけないでしょうか?」

今日は、ちょっと、朔太郎の「蛸」を読んでみます。



今読み返してみると、朔太郎の「蛸」の冒頭の一文は恐ろしいほど論理的です。そして、この詩のすべてをスタートさせます。わたしが冒頭に引用した記事を読んだときに、わたしの中で朔太郎の「蛸」が思い出されたのも、さもありなんと思われるのです。

ある水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。

餌をやってるから飼っているわけです。久しく飢えている状態で飼うというのはどういうことなんでしょうか? そういうことってありますか? 飢えている状態で飼っているってこと……。

ありますよね。いくらでも。親が子にすることって、大人が子どもにすることって、悲しいことにそういうことって少なくないのではないでしょうか。食糧の話ではありません。それは「心」の話になってくると思います。

朔太郎の詩は、象徴詩というか、全体で比喩ですから、この「蛸」は作者自身と思わねばなりません。そして、それは同時に現代人と考えてよいわけで、わたしなどは、そこに自分自身を見つけてしまうわけなのですが。もちろん、食べているの「足」は肉体だと考えてしまってはむしろわかりにくくなります。もちろん、その方がしっくりとくる方は、肉体だと思っていいかもしれませんが、それはそれで、ひょっとすると、朔太郎というよりは、冒頭の「ニュージーランドの男」に近い感覚かもしれないので、ちょっと心配です。

わたしは「蛸」は「人の心」だと理解しました。飢えた状態で、長い間飼われ続けていると、人の心はどうなってしまうのか……、ということです。心の死を招きます。そして、自らで傷つけていく。そしてそこに残るのは、がらんどうの水槽のような、心を失くした肉体です。いや、がらんどうに見えるかもしれないけれど、もっと嫌なものがつまっているかもしれませんね。それは「ものすごい欠乏と不満」です。

外からの圧力によって、自由を奪われ、満たされることのない日々を送り続けていた人が、いかに傷つき、ひねくれ、不満と欠乏のエネルギーを溜め込んでいくか、そうしたものをこの詩は詠んでいます。

そして、客観的には、それほどでもなかったのではないかと思われているのですが、少なくとも、朔太郎自身は自分をそういうふうに分析していたと思います。あるいは、そのように感傷したがっていたのかもしれませんけれど。

ここまで書いてて思い出されるのが、朔太郎の詩は言わば恐水病者がその恐怖をわかってほしくて作品化しているのに対して、後の詩人(昭和の詩人)が、そんなら「水をどけてくれ」という詩を作ればいいじゃないかと評した文章です。朔太郎の詩は、よくも悪くもそういう詩で、じゃあ「蛸」はどうしたらいいのか、飼い主はどうしたらいいのか、人々はどうしたらよいのか、という解決を与えてはいないのですね。

未来の見えない現代に、飢えた心を上手に満たすには、何が必要なんでしょうか。

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