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「誌上のユートピア」展~愛知県美術館

2008-07-08-Tue
愛知県美術館で開催中の「誌上のユートピア 近代日本の絵画と美術雑誌 1889-1915」展に行ってきました。
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 → 愛知県美術館のサイト
 → 美術館連絡協議会:「誌上のユートピア」のページ

19世紀末から20世紀初めにかけての約25年間、まさに世紀末から新世紀へという、夢や希望にあふれる時代だったのでしょうが、科学技術の発達もあってさまざまな変革ががあったわけです。美術の歴史のなかにおいても「美術雑誌」が、印刷技術の発達とあいまって、盛んに作られ、また注目された時代だったようです。この「誌上のユートピア」展は、その時代の日本の美術雑誌を多数紹介しながら、「その芸術的価値を再認識し、同時代の近代絵画にも注目しながら、それらが相互に共鳴するさまをご紹介しようとする愛知県美術館の「見どころ」のページより)というのが中心です。

まず、サロメのピアズリーほか、ドイツやイギリスの「美術雑誌」が展示され、ヨーロッパの美術雑誌が紹介され、それが日本における『明星』や『方寸』などへのつながっていったというような感じで展示されているのだと解釈しました。わたしは美術展などは、好きでときどき見に行くのですけれど、今回の展覧会はとても興味深いものでした。

日本の近代の詩歌は、浪漫主義(「明星」「白樺」など)、写実主義(「ホトトギス」、「アララギ」)、象徴主義(朔太郎)などという文芸思潮で語られるのですが、美術的な展開もよく似た流れになっていたのだということが納得されました。『明星』の実物が見られ、一条成美(第6号表紙)が展示されて、10冊余りおの藤島武二の表紙が並びます。風俗壊乱で発禁になったという、一条成美の8号の挿し絵が見てみたかったですが、なかったのは残念です(この発禁処分の責任を取って一条成美は退社、藤島武二が表紙を担当するようになったのです)。
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▲この「みだれ髪」のデザインも、まさにアール・ヌーボです。


「白樺」の表紙はそれほどでもなかったのですが、北原白秋の詩集「邪宗門」の挿絵や、蒲原有明の「春鳥集」(読んだことはありませんでしたが)見られたのはおもしろかったです。美術と詩歌が非常に近かった時代だということを感じました。そして、恩地孝四郎や田中恭吉の「月映」と朔太郎「月に吠える」が最後のあったのですが、なんだか、ちょっと付録みたいな感じがしました。象徴主義ということになるのでしょうが、「明星」ほどの華やかさがないのですね。「三越」のようなのびやかな感じや、神坂雪佳のあたたかさもない、「月映」や「月に吠える」には、隠花植物のような、日陰というか、闇に光るというか、そういう、暗さが特徴のように思いました。うまく言えませんけれど。

個人的に作品としておもしろかったのは、岡本伊作の「宇宙」と田中恭吉の「バラの棘」。

「バラの棘」はなぜだかこちらに大きな画像がある。最初はバラの棘で顔が傷だらけかと思ったのだけれど、よく見たら顔中に「バラの棘」がくっついているということのよう。この女の人(?)はバラの精かなにかなのか、ま、「美しいものには棘がある」という言葉そのものを作品にしたのかもしれないのだけれど、この人の、ちょっとイタズラっ子のような目もいい。

「宇宙」はなんというか、「色鮮やかに輝くエネルギーの奔流」をそのまんま絵にしたような、すごい作品でした。習作なんだそうです。なんか、論文というか意見文の載ってる雑誌(「芸術と科学」だったかな?)が展示されていて、ガラス越しに読んだら、「写実を書かないわけではないが、写実を書いていると心だけではなくて、その回りのものも書かなくてはならなくなって、本当に書きたい心が薄れていく。本当に書きたい心だけを書くには抽象画でなければならない」みたいなことが書いてあって、ああ、理屈っぽいが、わかりやすかった。この文章を読む前に、「宇宙」を見たわけだけれど、まさに、闇に光る星々の総体が宇宙の写実なんだろうけれど、それは宇宙の本質じゃなくて、無限のエネルギーの奔流こそが宇宙の本質だと表現したいんだと思ったので、とても興味深かったのです。

そして、合わせていうと、これは、朔太郎の詩論にちょっと似ているんですね。朔太郎は「月に吠える」の序で確か、水を恐れる人を使って「詩とはなにか」を説明していました。「水が怖い」ということが言いたいのでなくて、「どういう具合に怖いのか」ということを表現するのが(朔太郎の)詩だと。

メインは藤島武二や「三越」、神坂雪佳なんでしょうけれど、わたしには、恩地孝四郎や田中恭吉の隣に西村伊作が展示されているがとてもよかったと思われました。それは、偶然か必然か、あるいは展示者の意図かはわかりませんけれども。

というわけで、いつか田中恭吉か西村伊作を尋ねるチャンスがあったらいいと思います。


▲今回の目玉の一人。神坂雪佳。

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 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとつては只々不可思議千万のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病気について特種の智識をもたなかつた場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出来ないであらう。
 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。
 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
 人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
 とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。


   ~ 萩原朔太郎「月に吠える」序より

   → 青空文庫:萩原朔太郎

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