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David the smart ass

心のダイエット!~時には辛口メッセージを~

短編小説:「池のほとり」(5/5)

2001-03-10-Sat



  (5)

竜女がそんな小さないさかいに目を留めるのは、じつのところ珍しいことでした。いつもは、大地震だとか、飛行機の着陸ミスだとか、ガス爆発だとか、そうした派手な事件や災害を見ることが多かったのです。たまたまその日はそうした派手なできごとに見飽きていたというのがいいのでしょうか、小さな島国でおきた小さなできごとに注目したのです。

その小さな島国。物質的には最も豊かでありながら、その精神的な荒廃ぶりはこれまた最低であるという、「邪蛮(じゃばん)」と呼ばれる島国では連日ひどい事件が起こっていました。何よりもひどいのは、大人も、子どもの、老人も、もうあらゆる世代で自殺者があるということだと竜女は思っていました。そんなにも追い込まれた魂たちが住むひどい国、竜女は邪蛮をそんなイメージでとらえていたのです。

そして竜女は太郎を覚えていました。その年の臨海学校で、部屋に蛾が飛び込んできたときに、女子の一人が、「虫が嫌い」「蛾が怖い」なんて言っているのを、「自然だから当たり前じゃないか」と言って笑い飛ばしていたのです。また、同じ少女が部屋に入ってきた「蜘蛛を殺してほしい」と言い出したときに、例によって正論で「やたらに生命を傷つけてはいけない。虫の命だって大切だ。蜘蛛だって殺してはいけないんだ」と得意げに言っていたのです。

あのとき、太郎くんは本当に蛾も蜘蛛も殺さなかったのよね--竜女はそれを思い出しました。竜女がふっと横をみると、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、一匹の蜘蛛が美しい銀色の糸をかけていました。竜女は細いかわいい指先でその蜘蛛の糸をそっとつまむと、はるか下にある蓄游へとまっすぐにそれを垂らしだしたのです。

糸は音もなく太郎の頭上に現れました。戻れば捕まる、進むといつ深みがあって足をとられるとも限らない、まさに進退極まりなくなって太郎の頭上に、重なるように茂った木々の間から、どこからか銀色の細い糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると垂れてきたのです。

なんだ? あれは……。まさか、これにしがみついて昇るのなどということがあるはずがない。ウザい。太郎はそれを払って捨てようとしたのです。ところが、いざ触れてみると手ごたえがちょっと違います。どういうわけか簡単に切れず、それどころか弾力がありました。テグスなどが皮膚に食い込むと切れてそうになるというよなよくある心配は不要の感じです。手にしっくりとなじんでこのまま掴んで昇るのが、むしろ容易ではないかと思えるほどでした。

これは昇れるぞ……。太郎はそう思いました。そして迷いはありませんでした。さっそくその糸を昇り始めたのです。結果は思ったとおりでした。糸は手になじみ、大変昇りやすかったのです。どこかに不思議な力が働いて太郎の体重を浮かせてくれているようでもありました。ところが、太郎が下を見ると数メートルあけて少年たちが一人、二人と昇ってくるのです。

太郎はどこかでこんな話があったのを思い出しました。ああ、あれはなんとかいう小説家が書いた『蜘蛛の糸』って話だったな。カンダタという罪人が地獄の血の池から蜘蛛の糸を頼りに昇って逃れようとした話だった。自分だけが助かりたいという欲を出して、「この糸は俺のものだ」と叫んだ瞬間に糸が切れて台無しになったというような話で……。

太郎はあらすじを思い出しました。果たしてこんなことが、現実にあるものなのか。太郎はびっくりしました。まるで、この世が地獄とでもいいたいような……、ま、確かに似たようなものだけど……と太郎は大人びたことを考えながらも、昇る手は休めませんでした。

もう日はすっかり沈んで夕闇という感じでした。池を取り巻くように生えている針葉樹、その高さと同じくらいまで昇ったときに、太郎はふっと疑問に思うことがありました。いったいこの糸はなんだろうということです。今まで助かりたさに夢中だったのですが、いったいだれが、何のためにこんなものを自分の前に垂らしたのか? 太郎は見当もつきませんでした。

お釈迦さまか、神さまか、いったい誰が、なんのために。その思いはどんどん太郎の中で広がっていきました。芥川の小説の中ではお釈迦さまが、盗人の一瞬の善意を覚えていて地獄から助けてくれようとしたのだけれど、自分のそうなんだろうか、これでいいんだろうか……。太郎にはそれが不思議で不思議でしかたがなかったのです。そして、太郎は思ったことは正直に口にしないではいられない性質だったので、それをそのまんま言葉として発してしまったのです。

「いったいこの糸はなんなんだぁ。俺は、神も仏も信じない。無神論者だけどかまわないのか?」

その途端のことでした。そして一瞬でした。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に太郎のぶら下っているところから、ぷつりと音を立てて切れてしまったのです。あっという間もなく、太郎も少年たちも、独楽のようにくるくるまわりながら、みるみる池の中に落ちていってしまいました。

  (6)

竜女は蓮池のふちでこの一部始終をじっと見ていましたが、神田太郎が暗い池の中へ大きな音を立てて落ちるのを見とどけると、ふっと笑って顔をあげました。そうしてポンと蓄游の上を叩きました。暗闇に青く美しく輝いていた蓄游は、まるでスイッチの切られたディスプレイのように、ぷつんと輝きをなくし、ホログラムのような映像も同時に消えてしまいました。

あーぁ。小さくため息混じりを一つして、竜女は腰を上げ蓮池のほとりを離れ、せせらぎにそって歩き出し、太郎が落ち込んだ池のほとりでは、三月だというのに生温かい風がすっと吹きすぎていくのでした。

                      <了>

(平成19年3月10日)



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芥川龍之介「蜘蛛の糸」(青空文庫)
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