David the smart ass

心のダイエット!~時には辛口メッセージを~

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「すべての生き物は生まれて死ぬ」~仏陀の言葉

2009-07-29-Wed
先日、仏教や仏陀について調べる必要がありました。詳しいことを書くこともないのですが、外国人に「仏教」とはどういうものかを説明しなければならなくなったのです。

いろいろ検索していたのですけれど、ちょっと興味深い言葉を見つけました。

そのページを疑う根拠はなにもありません。仏教関係の方がしっかりしたお考えのもとに作られていると思います。ただ、あまりにも簡単な言葉で、わかりやすく本質的に書いてあったので、こんなに単純でいいのかしらんと思ったほどでありました。しかし、その言葉の明かりで、わたしのこれまでの、豊かとは決していえない仏教へのかかわりを照らしてみるとき、なんの矛盾もなく、きっちりと納得されるので、今では、これぞ仏陀の教えであろうと信じています。

その仏陀の教えの核心とは、

すべての生き物は生まれ<て>死ぬ

です。ああ、素晴らしい。今まで「(仏教的)無常観」などとわかったようにいろんなところで読み聞きし、自ら語りもしてきました。「すべてに永遠のものはない」だとか解釈してきました。確かに、全宇宙の非生命に関してもすべてに永遠ということはないのでしょう。それは宗教的真理であると同時に、科学的、宇宙的真理です。

けれど、そのように宇宙的真理として仏陀が語ったというよりも、「すべての生き物は死につつある」と、生と死という見方でとらえた言葉の方が、わたしにはしっくりとしたように思えたのでした。

釈迦族の王子に生まれたシッダルタは、生後7日にして実母(摩耶夫人)を失い、王子として暮らしていても心から楽しむことができず、死や病や苦しみのことばかりを考えていたといいます。わたしは実母の死の大きさがそこに感じられます。まるで、自分の誕生が実母を傷つけ、命までも奪った……、そのようぶシッダルタは悩んだのではないでしょうか。その辛さ、虚しさ、矛盾からどうしても抜け出すことができず、それが、宗教的な修行へと向かわせたのだと思います。

「色即是空」という世界観を得たよりも、「すべての生き物は生まれて死ぬ」とした方がリアルな救いとして仏陀に感じられたのではないかと思うのですね。

偉大な宗教の始まりを、単に個人的な悲しみの問題にしていいのかどうかは疑問ですが、ま、非常に大雑把に言えば、そういうものとして生まれてきた生命はどのように生きるのが(宗教的に)正しいか、そのことを釈迦やその弟子たちは考え、語り、実践を積み上げて、今の仏教があるということになっているわけでありましょう。今の仏教界のすべてが、釈迦の付託に応えてているかどうか、わたしのような一個人にはわかりませんけれど、インターネットでちょいちょいと調べて、この言葉に出会えたことに、今はとても感謝しています。

わたしはこの言葉を「クリスチャンに贈る仏陀の言葉」というページで知りました。その時のわたしの心にズシリとしたものに感じられ、納得されたのですが、果たしてクリスチャンたちが、このページをどう読むかはいささか心配しないわけではありません。

なぜなら、わたしはクリスチャンの友人を前にして、わたしは一応仏教徒、君はクリスチャン、信仰はそれぞれ違っていい全然かまわないという態度で済ませています。なんの抵抗もないし、争いがなくていいなぁとさえ思っています。しかし、そこは信仰に篤い方となるとそうはいかないものなのでしょうね。自らの信仰が絶対的に正しいといういう以上は、別にあえて言及しなくても、それは同時に他の信仰は間違っていると言っているのに等しいわけです。積極的に直接主張しなかったとしても、では、どうですかと尋ねられれば、やはりそう言う立場に立たねばならなくなるということなのでしょう。せいぜい、日本では信仰は自由ということになっていますとか、それぞれのお気持ちお考えがありましょうと言葉を濁したとしても、つきつめれば、信仰の前に嘘はつけませんから。

「クリスチャンに贈る仏陀の言葉」というサイトも、贈るというので、一見柔らかそうなニュアンスを感じさせますが、本質的には自らの正しさを述べ、相手(キリスト教)の立場を間違いであると述べているのです。それは、敵対的でもあり、挑戦的でさえあります。

ただ、実際武器を手にして戦うようではいけないと思いますが、ま、こうした筋道立てた言葉によって、他宗教の解釈や評価を述べ、自らの宗教の正しさを主張するのは、果たして希望的でポジティブな結論に達するかどうかは疑問の部分もありますが、一概に否定できないと思います。

少なくとも、一応仏教徒であるが、さほど信仰に篤くないわたしには、とても参考になるページだったと思います。

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マンダをラする~「曼荼羅」語源

2009-07-28-Tue
曼荼羅って動詞だったのですね~。

まず、ITMediaNewsの記事です。



kwoutによる引用部分の右端の写真はiPhoneの画面の拡大版でしす。写っているのは、iPhoneアプリ「iMandalart」を起動させているところのようです。マンダラート……。なんでしょう、この言葉。iPhone版なので「iマンダラート」というようですが、iPhoneの画面をいろいろ使いやすいように区切っていったら、たまたま分割されて9つになって、なんとなく曼荼羅(たとえば下のような金剛界曼荼羅)っぽくも見えたので、「マンダラート」と命名したという、ちょっと際物的なうさんくささを感じました。別にここで大袈裟に曼荼羅に結び付けなくても、iPhoneはもう知名度もあるんだし……と。



しかし、それは逆でした。

「マンダラート」(MANDALART)というのは、iPhone登場以前から、「デジタル思考ツール」として既に存在していたのですね。知りませんでしたが。
 → マンダラートの誕生のページ

だから、ITMediaNewsの伝える記事は、従来からある思考ツールマンダラートのiPhone版アプリが登場したというものだったのです。ま、そう書いてありますけど~w。

もちろん、それだけでなく、iPhoneにとってマンダラートのような思考ツールが欲しいとは思っていたが、それにぴったりだ。ただ、どのようなものが求められ、どうバージョンアップしていくかは今後の課題であるという、iPhone側の思惑や、マンダラートにとって、PC版やPalm版がすでにアプリとしてあったが、iPhoneと出会って、一層それも大幅に活用されるチャンスが増えるだろうという、マンダラート側の情熱を伝える記事でもあったわけですけれど。

ちなみに、PC版もPalm版も、このページからダウンロードして期間限定で無料で使えます。Win95に対応してるとありますので、そうとう歴史あるソフトですね。

さて、この「マンダラート」のページにネーミングの由来が書いてありました。

よく マンダラートは 仏教の曼荼羅と関係がありますか?
と聞かれますが まったく関係はありません。

たまたまデザインした九画の図形が
仏教(正しくは密教)の金剛界曼荼羅と酷似していたため
今泉は仏教曼荼羅の勉強を始めたことがあります。

結論から言えば
曼荼羅には マンダラートのような使い方の痕跡もありませんでした。
 → マジカル・ソフトウェア:「マンダラートは どのようにして 生まれたのか?

あ、わたしの思ったとおりです。際物的という言い方は失礼にあたるとは思いますが、最初に9分割のデザインがあってそこに金剛界曼荼羅との共通点を見出して命名したのですね。思考ツール「マンダラート」の発案者今泉氏はそこで留まらず、曼荼羅について調べ、結果「曼荼羅にはマンダラートのような思考ツールとしての使い方はない」ということにたどりきます。それと同時に、「曼荼羅」とは「曼荼(マンダ)を羅(ラ)したもの」ということに共感したのでした。

ただ このカタチを「マンダラ」と呼ぶのは
このカタチは 「マンダをラするカタチだ」という言い伝えに
深く同感しました。

このカタチで考えれば 物事の本質に迫れる!
日々に使うことで それを実感していた今泉は
それまでヒログラムと呼んでいたこの手法を
マンダラート マンダをラするアート(技術)と名づけたのでした。
 → 

ああ、そうなんですか。

曼荼羅とは、宇宙観というか世界観や真理を同心円状にきれいに配置した図のことを言うと理解していたのですが、語源的には曼荼(マンダ)を羅(ラ)するということなのですね。

曼荼(マンダ)とは、ものの本質、真髄

羅(ラ)とは、所有する、与える、持つ。

いずれもサンスクリット語で、つまり「マンダラ」とは「真髄を与えるもの、ものごとの本質を有するもの」という意味だったのですね。

おもしろがって、ついでに調べると、阿修羅展などで大人気の「阿修羅(アスラ)」は「阿修(アス=命)を羅するもの」ということのようなんですね。ただ、同時に「ア(反)するもの、スラ(天)に」という解釈もできるところが、阿修羅の阿修羅たるゆえんでして、同じ名前が「命を与える」の意味にも「天に反する」の意味にも解釈されてしまうのです。

ただ、「金毘羅(コンピラ)」や「婆裟羅(バサラ)」については、調べて「ワニの名前」「ダイヤモンドのこと」というような語源はうかがえるのですが、サンスクリット語での読解はわかりませんでした。

映画:「M」~DVDで

2009-07-26-Sun
GEOが夏休み期間中は100円というキャンペーンをしています。8月31日まで旧作はすべて100円で借りられます。実はこの「旧作」というネーミングはどうかと前から思ってはいるのですが、「新作」の対義語だから「旧作」というふうに発送したのかもしれませんが、そういうレッテルを貼られた段階で色褪せてしまうように感じるのですね。

ま、しかし、シリーズものを借りてきて見るのにこんなに都合のいいことはないので、「キッドナップ」とか「ダメージ」とかいった、5~6本1シーズンの海外ドラマを続けて見ていたのですが、手元にまとめてあるとついつい続けてみ見てしまうので、頭がぼーっとして目がちかちかして、全部借りてくるのも考え物だなと思ったりしています。両者ともおもしろい作品だったので、ま、そのうち記事にしたいと思っています。

さて、そんな中で、ちょっと邦画も思って借りてきた「M」が意外によかったのでこちらから書くことにします。


 → 映画生活:「M」

GEOのくくりでは、「セクシー」というコーナーにあって、R-15指定でした。「ハゲタカ」で話題の、大森南朋が出ているとセクシー映画いう視点で記事にできそうだと思って借りてきたら、確かにセクシー路線ですが、文芸路線というか、現代人の心の隙間をうまく描いているようで(別に現代人ってことでもないのでしょうけど、「出会い系サイト」という使ってる道具が現代的でした。ケータイ、インターネット、デジカメと……。)、興味深く見ました。ちなみに、メインキャラは子役を入れてもせいぜい5人で、大森の役どころはヒロインの夫。田口トモロウと並んで脇役です。もっと脇役ですが、懸賞生活のなすびあたりも出ています。

主人公は二人。平凡な専業主婦のサトコと、何か過去にわけがある新聞配達の若者ミノルということになるでしょう。

サトコは28歳で、東京郊外の一戸建てに、優秀そうな夫(大森南朋)と幼稚園の息子と住む、ま、普通の専業主婦です。平凡というより、平穏。何の刺激もない、また、夫からも少し振り返られなくなった時期でもあるのですが、ケータイの出会い系サイトにいたずら半分興味本位で投稿します。ま、それは冒険のスタートでありますが、同時に、危険のスタートであり、一つの破綻のスタートでもありました。

もう一人の主人公ミノルは、住み込みで新聞配達をする一見真面目な青年です。たぶん、まじめでまっすぐな性格です。たぶん、その純粋さから、過去に過ちを犯し、その影響をひきずっています。鑑別所時代の悪い友人ともなかなか切れないで、時々気晴らしに付き合うようですが、心から楽しめることはありません。

サトコもミノルも、一見安定した生活をうまく送っているようで、心のどこかに隙間があるというか、満たされない感じがあるのですね。たぶん、それは現代人だけじゃあないはずだと思うのですが、ただ、昔は多くの、少なくとも庶民はハングリーだったと思うのですね。実際に空腹というのではなくても、生活に追われていたというか、エンゲル係数が高かったというか。リーマンショック以後はともかくも、ついこないだまでの日本は、そういうハングリーさはなかったのですね。

不足感というか、満たされない感覚と言っても、とりあえずの生活には困らないけれど、何か虚しい。豊かになって、暮らしには困らないのだけれど、退屈で楽しくないみたいなところがあったと思うのですね。そういう、飢えというよりは、渇きというのかな。

出会い系サイトから主婦売春へと進んでいったサトコの写真がネットに流出することによって、この二人が知り合うようになっていくのですね。貧しいわけでもないのに身体を売る……、それにはいろいろが要素があって、性における自分探しの一つみたいなところがあるという解釈なんでしょうね。

それは、ミノルの方から始まります。若くて元気いっぱいのはずなのに、なすび(新聞配達の同僚です)や、他の仲間のように、うまく言えないけど、普通に性に向かえない。ミノルの場合は、それは、母に関わる昔の事件が関係していて、異性に興味がないわけでなないのだが、楽しく気軽につきあえないのですね。なすび(新聞配達の同僚です)のように、明るく風俗店にもいけません。

ミノルがそうであるように、サトコが主婦売春から抜けられないのも、同じようなトラウマが関わっているという解釈なんです。これ以上はネタバラしになってしまうので、あれですが、ま、そのトラウマをなんとかしなければ次へ進めないわけなんで、映画はそこでなんとかしようとするわけなんですね。

そういう自分探しみたいなこと、わたしもずいぶんとしてきているので、この作品は、そこがよかったと思います。

そういうことがわかってみると、「セクシー」という棚におかれているのもなんだなと思う気がします。セックスのシーンだけから言えば、「蛇にピアス」の方が何倍も多くて過激です。ただ、テーマが大人の自分探しだと思うので、別にR-15でも全然構わないとは思いますが、「セクシー」の棚におかれているのにはちょっと抵抗がないでもないですね。ほかにどんなのが並んでいたかよく覚えてないけれど、杉本彩の「花と蛇」とか、谷崎潤一郎原作の「卍(まんじ)」とか、永井豪原作の「けっこう仮面」だとか、あとは団鬼六のシリーズとか、喜多嶋舞が出てるやつとかでした。

監督は「ヴァイブレータ」の廣木隆一で、そういわれれば通じるものがあるなぁと思うのですが、「ヴァイブレータ」は同じ棚にはありませんでしたね。



最後に、カン・ドンウォンの「M-エム-」とは全く別の作品です。



「審判」が「チンパン」?~Jリーグ人種差別発言騒動

2009-07-24-Fri
Jリーグで、といってもJ2ですが、試合中に人種差別発言があったと問題になっています。

 東京・味の素スタジアムで22日に行われたJリーグ2部(J2)の東京V-甲府で、東京VのMFレアンドロ(28)が人種差別的発言を受けたとして激高し、鈴木茂マッチコミッショナーが両チームに事情聴取を行った。
 → iza:「甲府・杉山、試合中に人種差別的発言!?

記事によると、試合終了後、レアンドロが「ロスタイムは短すぎた」と審判に抗議した際に、甲府のDF杉山に「ポルトガル語で『チンパンジー』と言われた」ということです。一方の、杉山の側は「言っていない。ポルトガル語も分からない」と強く否定したそうです。

レアンドロと杉山とが試合中にどういう感じだったのかわからないし、二人の選手について何も知らないのであれなんですが、試合中の暴言といっても(人種)差別発言は大きな問題だということを痛感します。

果たして杉山がレアンドロに暴言を吐く必然性が、それも、日本語でなくポルトガル語で、チンパンジーと言う必然性なんて……、レアンドロと杉山とが試合中にどういう感じだったのかわからないし、二人の選手について何も知らないのであれなんですが、ちょっとありえないと思います。杉山の「ポルトガル語もわからない」という言葉は素直に理解できます。前々からよほど因縁があるならともかく、わざわざポルトガル語でチンパンジーとは言わないでしょう。

まず、ポルトガル語でチンパンジーのことをなんというか、知りませんよね。検索しました。ありました。
 → Yahoo!知恵袋:「ポルトガル語でチンパンジーは何て言うんですか?できれば読み方としてカナカナにも変...

答えは「chimpanzé」で、「チンパンゼー」という読み方を示している人もいますが、

発音は、最初のchiが日本語でいうところの「シ」に聞こえる感じです。
シンパンゼ、が一番近いかな。

という回答もついてます。

ああ、これなら「審判だぜ」とか、「審判ウゼェ」とか、「審判遅ぇ」とかいうと、ポルトガル語で「チンパンジー」って言ったようにも聞こえますね。これは、ありそうです。J-CASTニュースでも、「「審判」と言ったのを聞き間違った可能性も」と書いています。

2009年7月22日に「味の素スタジアム」で行われたJ2第29節、東京ヴェルディVSヴァンフォーレ甲府の試合が騒動のきっかけ。1対1で迎えた後半ロスタイムに甲府の大西容平選手がヘッドで合わせ、劇的な勝利になった。試合終了のホイッスルが鳴った直後、東京のレアンドロ選手が審判に対し、終了には早すぎると抗議した。かなりの興奮状態だったため、審判はレアンドロ選手にイエローカードを出した。その際、甲府の杉山新選手がポルトガル語でレアンドロ選手に「チンパンジー」と言ったのだという。

甲府の広報によれば、杉山選手は「チンパンジー」などと言った覚えはなく、「チンパンジー」のポルトガル語表現すら知らないという。「審判」と言ったのを聞き間違えた可能性もあり、

「レアンドロ選手はかなりの興奮状態にあったため、そのとばっちりを受けたという感じだ。試合後の事情聴取でもそう説明しています。レアンドロ選手は聴取を受けずに帰ってしまいました」
と説明する。
 → J-CASTニュース:「「チンパンジー」言った?言わない? Jリーグで差別発言騒動

これだけを読むと、ま、杉山の「審判」を、レアンドロが「チンパン」と聞いてしまったということになりますし、これが真相だとしても、素直にうなづけます。

ただ、この話を聞くと、いろいろなことを思いますね。

杉山やレアンドロのことはここでは切り離して(というのは、真相はわたしにはわからないので)、勝手な妄想だけを書かせてもらえば、サッカーの選手にはブラジルの選手多いですから、日本語で「審判!」という言葉に抗議している姿に、過敏に反応しているブラジル選手を目撃する機会は、Jリーグではそれほど珍しいことではないのかもしれないということです。つまり、そういういやらしいことを十分に承知の上で、ブラジル選手と審判員を目の前にして「審判! 審判!」と連呼して、カッカさせることってないのだろうかということです。いいこととは決して思いませんが、なんかそういうことってありそうです。

「国際サッカー連盟は近年、人種差別的発言に厳しい姿勢を示している」(→ iza:「甲府・杉山、試合中に人種差別的発言!?)わけで、むふふ、よく調査して、お互いに納得いくような解決になるといいですね。

ちょっと悪ノリして書くと、もし、ブラジル人の審判だったらどうなんでしょうね。ま、J2にはいないにしても、国際試合とかでだったら普通にブラジル人の審判ってことがあるのですよね。だったら、審判に対して「審判」という日本語で呼びかけるのはマズいということになってるんでしょうか? もし、そういうことなら(仮定です)、国際レベルの選手ならそれなりに知ってることになりますね、「審判」という言葉の危うさくらいは。だとしたら(仮定です)、これはこれでサッカー界では特別にな話ではないのかなと思ってみたりもします。

……難しいなぁ、まさか、こんなことで「審判」という日本語が国際的なスポーツ界から追放されることになるとは思わないけれど……。



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