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David the smart ass

心のダイエット!~時には辛口メッセージを~

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「森進一のおふくろさん」問題

2007-02-22-Thu
これについて書く専門的な知識があるわけではありませんけど、新聞社の社説盗用よりもこっちの方が、カオスなだけおもしろい。

困惑、森進一「先生は知っていると思った」「おふくろさん」セリフ追加問題
 歌手、森進一(59)の代表曲「おふくろさん」の詞に、オリジナルにはないせりふが足されているとして、作詞家の川内康範氏(86)が20日、都内で怒りの会見を開き「おれの歌はもう歌わせない」と“絶縁宣言”した。森も同日、緊急会見し「突然でびっくりした。もう30年も歌っており、先生も知っていると思った」と困惑しきり。突如勃発したせりふ騒動。一体何が原因なのか?
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作詞家の川内康範の主な主張は

川内氏は、オリジナルの詞にはないこのせりふの付け足しが無許可の改変にあたると問題視。会見で「ありえない。作家同士なら盗作といえる」と怒りをぶちまけた。

です。

これに対して森進一の方は

「突然のことでビックリ。歌わせない、といわれても…」と困惑気味に語った。
 「30年近く歌っており(川内)先生も知っていると思った」と釈明。「10年ほど前に『(自分が)アメリカで入院しているのを知っているか。歌わせないぞ』との手紙が来た。そのときはせりふの話はなかった」と、著作権の問題よりも感情的な対立であることを示唆した。

とうい感じで、当初報道されていました。

ところが、その森の余裕ともいえる表情が、TVのワイドショーが映し出す川内康範の映像を見ることによって変わりました。

森が川内氏の会見の模様をテレビで見たのは同日深夜だったといい、「先生があんなにご立腹とは知らなかった」と話した。川内氏の怒りを“目の当たり”にしてわずか1日で翻意したようだ。関係者によると、森は今月中にも楽曲を管理する出版担当者らと川内氏のもとに訪れたい意向だという。
   ライブドアニュース:「森進一「激怒」見て直接謝罪へ」

ということで、森進一側から謝罪などの歩み寄りを見せるようです。

ま、こういう揉めごとが円満に解決することにがっかりしてはいけないのでしょうけど、「不義理」とかそういう問題はともかくとして、川内康範作詞、猪俣公章作曲の「おふくろさん」(→歌詞と演奏のページ「ふくちゃんの音楽室」)のイントロ部分に勝手にメロディー付きの台詞が加わっていたという点について、そっちも興味深い問題だと思うんですが、どうなんでしょうか。

スポニチによると、上に書いてきたこととかぶりますがこんな感じです。

 きっかけは昨年大みそかのNHK紅白歌合戦。森が2年連続で歌った「おふくろさん」をビデオで見た川内氏は「ワシの作ったものじゃない」と絶句。歌い出しの前に、短い“語り”とメロディーが付け足されていた。

 「いつも心配かけてばかり いけない息子の僕でした…」

 驚いた川内氏が、森サイドに問い合わせたところ、既に他界している作詞家の保富康午さんと作曲家の猪俣公章さんに作ってもらったと説明。しかし、川内氏には一言も説明がなかったため、事情説明の場を17日に設けた。
  スポニチの全文を読む

ま、この「17日の事情説明」を森進一がドタキャン(体調不良)したことが今回の騒動の直接のきっかけです(これにちゃんと行って円満に話が進めばなんのことはなかったのかもしれません。円満にはいかなかった可能性もあります)。

しかし、この記事にあるような一節が問題になっているのですね。つまり、一つの完成された楽曲(「おふくろさん」)に新たなイントロ部分(「いつも心配……」)が、作詞者(川内)の知らない間に加わっている、その点ですね。作曲者は同じ猪俣公章なんで、承知の上ってことなんでしょうけど、作詞者の川内康範にはそこが伝わってなかったわけです。蚊帳の外ってわけですね。

著作権法上どうなのでしょう。実はこの件に関して、ワイドショーを見ることができまして、二つの違う見解が示されていました。どちらも弁護士でした。

某ワイドショー(たぶんTBS系と思う。違うかも)で見た弁護士は「イントロ部分は作詞とは別なので、作詞者にとって、その点だけで改作ということにはならない」という言い方をしていました。つまり問題ないという見方です。一方、別のワイドショー(たぶんフジ系と思う。これも違うかも)では、「全体の楽曲としてみれば、勝手な改変。著作者人格権の問題」という見解だったと思います。弁護士名まで覚えてるといいのですが、ごめん、そこまで真剣にワイドショー見てないので……。

つまり、この改変に関わって、
 1)イントロ改変は作詞者の著作権には無関係
 2)イントロ改変は作詞者にとっても著作者人格権の侵害
という二点が示されたわけで、どういう展開になるか、司法まで行ってほしいと思いました。

さらに、興味深いことに追加した台詞の部分の「でき」については、同スポニチ記事によると、

川内氏は、スポニチ本紙の取材に「新たなアレンジは感動的でいい」と評価したものの「なぜ事前に知らせてくれなかったのか。いまだに会って説明しないのはおかしい」と道義的な部分で立腹していることを強調。
  スポニチの全文を読む

ということで、気に入っているわけなんですね(笑)。

つまり、このままだと、
 3)イントロの改変を受けた作詞者が、その連絡に落ち度があるからと行って、歌手に自分の楽曲を歌わせない権利があるか?
という問題になってくるのですね。JASRACも困るでしょうね~。作詞者が「いや」だといっても、故人である作曲者はおそらく歌わせたくて作ってるのでしょうし。そこもちょっと複雑です。

いささか広すぎるスパンのボタンの掛け違い」といえなくもないのですが、このイントロ部分の追加(改変?)が著作権法上どう判断されるか、また、作詞者の「連絡に落ち度があるから、以後歌わせない」という主張がどこまで認められるのか、あ、ほんと、もったいない。できたらうやむやに円満に解決してほしくありません(笑)。すみません。



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ポストの前で立ち尽くす~「後の祭り」

2007-02-22-Thu
今日に限ってボーっとしていたつもりはないのですが、ま、ボーっとしているといえば、ある意味、年がら年中ボーっとしています。

わたしは今日、あるところに出さねばならない郵便物がありました。ええと、具体的にその内容が問題ではないので、あるもの申込用紙と思ってください。あらかじめ、先方からパンフレットなどと合わせて、返信用封筒をつけて送ってくるようなたぐいのものです。

ただ、ちょっと大切な申し込みだったので、実は、申込書を記入する段階から「書留(配達記録)」にしたほうがいいのではないだろうか、どんなものだろうかと、ちょっと頭の中で考え、迷っていたのです。そうして、あらかじめ郵便局へ立ち寄る時間的な余裕を見て出かけたのです。

ところが、年度末ともなるといろいろな箇所で道路工事をやっているものでして、わたしの地域でも某交差点が混み混みでありました。そして、なんだこんな状態では郵便局どころでなくて、遅刻にもなりかねないぞと、郵便物そのものよりも遅刻のことが、どんどん気になりだしたのです。そして、もう郵便局へ寄るのは無理っぽいかなと思いながら、ひょいっと路地を曲がったのです。

そのとき、わたしの目の前にポストが出現しました。今まで何度も利用したことがあるポストです。ああ、ここのポスト便利だよなぁ。おあつらえ向きとはこのことだ……と、わたしは車を寄せると、「申込書」をいかばんのポケットから出し、ポストに入れました。

いえ、入れましたというか、入れてしまいました。そして、その次の瞬間、わたしはぞっとして立ち尽くしました。切手を貼った記憶がなかったのです。そもそも、さっきまでは書留にするつもりでいたのですから、切手のことはまったく心配せずにいて、それが、早めに出る→工事で渋滞→遅刻しそう→ポスト出現という、ちょっと何か、ポストがいかにもお前を助けに来てやったんだよとでも言わんばかりに現れたので、ついつい、その手にすがってしまったでした。

あー。わたしはポストの前で立ち尽くしました。ハザードランプがカチカチって音がひときわ聞こえるような気がしました。しまった。どうするんだろう。どうしたらいいんだろう。携帯で、ポストに書いてある集配郵便局の電話番号をダイアルしてみました。

「……お客様が……現在使われておりません……」

ええ~そうなのかよ、郵政省! と思いながらも、もうこれは電話をかけても無駄ってことを暗示してるんだと思って、ま、そのままクルマに乗って、「工事のせいだ、工事のせいだ」とブツブツ一人ごちながらクルマを走らせたのでした(遅刻はしませんでした)。

ということで、今日の愕然とした体験なんですが、これだけではなんですんで、こういうのを後の祭りというのだろうということで、後の祭りについて、その語源を書いておきます(参考は語源由来辞典というサイトです)。

「後の祭り」の由来としては、大きく二説あります。

一つは、この「祭り」というのが京都八坂神社の祭(祇園祭)を意味していて、メインは「山鉾巡行」という十数台の山鉾(山車)が祇園ばやりとともに練り歩くメインのイベントがあるのですが、それが終わってしまうと、山鉾などのメインがなくにぎやかさも半減することから、祭り見物に行っても意味がない、「後の祭り」=「手遅れ」というような意味になったという、いわば「祇園祭説」があります。これは、祇園祭に限定することがなくても、メインが終わった後の祭なんてのは、どこでも寂しいものであります。

もう一つは、この祭がこういう年中行事としての祭ではなくて、葬式や法事などの故人の霊を祭る祭のことをさしています。生きているうちの祝いごととか、あるいは病気中の治療などでもいいのでしょうが、そういうことをねんごろにすることなく、人が亡くなってしまってから盛大な儀式をしてもあまり価値がない。むしろ後悔の念があらわれていますね。そういう皮肉っぽい意味をこめて、「後の祭り」というようになったという、「盛大な葬祭説」ですね。

今日は、ほんの数秒時間が戻ればなんとかなる、目の前のポストの中にはわたしの入れた郵便物がある、誰かに頼めばなんとかしてもらえそうである……、それなのに、これだけ情報社会であり、便利な世の中なのにどうにもならず、愕然とした立ち尽くした、そんな日でありました。

果たして先方に届くのか、差出人に戻ってくるのか……、これが「書留」にしようかどうか迷っていたほどの、いささか大切な申込書だけに、このショックがぬぐいきれず、思わず笑ってしまうのでした。



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