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David the smart ass

心のダイエット!~時には辛口メッセージを~

タブレットが壊れてしまった~「朔旦冬至」

2014-12-23-Tue
昨日は朔旦冬至(さくたんとうじ)であった。

冬至は言わずと知れた「昼の一番短い日」ということになっている。昼というのはややあいまいで、理論上の日の出から、日の入りまでの時間が、一年で一番短いということである。屁理屈を言えば、日の出や日の入りは住んでいる地形によっても違うし、太陽が出ているかどうかは天候によっても違うのだし。

ま、我が家も柚子湯に入り、カボチャコロッケをいただいた。ま、カボチャコロッケは残念ながら冷凍ものであったのだけれど。

さて、今年はただの冬至でなく朔旦冬至であった。

朔旦冬至の前に、朔の字について。

「朔」とは「朔日」のことである。何月何日というときの月(month)は、実際の月(moon)の満ち欠けに由来する。月(moon)が新月から満月になってもう一度新月に戻るまでの、約28日をひと月としたのだ。一度光を失った月が、もう一度光を取り戻し始める、そうした再生のイメージが新月にはある。朔日とは「つきたち」、新たな月の始まりであり、新たなる生の始まりであった。

さて、朔旦冬至とは、その新月つまり朔日に、冬至が重なったということである。

太陰暦が月の満ち欠けに注目してできているのに対して、太陽暦は太陽の周期(本来的には太陽を巡る地球の周期の関係だろうけれど)に注目されている。冬至や夏至、春分、秋分などで知られるの二十四節季も太陽暦同様に太陽の周期に注目してできている。

冬至を月の満ち欠けにとらえるとどうだろう。太陽は満ち欠けしないが、日の出から日没までの時間がもっとも長いのが夏至であり、月の満ち欠けに当てはめると満月に相当させることがきる。冬至は新月である。太陽の再生が開始する日ということになるわけだ。

なんとめでたい! 朔旦冬至とは、太陽の再生と月の再生のイメージを重ねて持った、まさに、生命にあふれた日であったわけだ。

参考:


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古典の日に、「正かな同人誌」の話をしよう。

2012-11-01-Thu
早いもので、もう十一月、今年もわずかに2ヶ月を残すばかりになりました。

さて、今日11月1日は古典の日です。「日本の古典文学を顕彰する記念日」ということになっておるようです。そういう日でもありますから、ちょっと、私が参加している同人誌の話を書きます。

私が参加しているの「正かな同人誌」というちょっと特殊な同人誌です。「同人誌」というからは、同じような考え、志向性、趣味、主義主張、思潮を持つ人たちのものというのが本来なのだと思います。この同人誌の理念は「正かなづかいは生きている」というものです。かなづかいについて、「新かなづかい」、「旧仮名遣い」などというふうに「新」「旧」という言葉を使ってしまうと、なんだか、歴史的仮名遣いは古臭い過去の仮名遣いのように思われ、今の時代に合わない古臭い仮名遣いであると考えられてしまいがちです。このままでは、古くて使えないと見捨てられそうです。

何歩か譲って、時代に合わなくなったというなら、ま、確かに戦後の国語政策、国語教育のためにそういう傾向はなくはないのですけれど、しかしながら、新しいものがいいもので、古いものは間違っているという観点だけでは、実は大事なことを見落としています。

それは、国語の歴史、つまり、言葉の歴史、由来、成り立ちのようなものです。

わたしは、普段は全く歴史的仮名遣いは使いませんけれど(読むことはあります)、正かなづかいを大切にしていこうという考えの人たち(「正かなクラスタ」などと呼ぶようですが)は、少なくとも言葉に関しては、強い関心を持っているし、知識も豊富で、真剣に向かい合おうとしています。

たとえば、「おばさん」と「おばあさん」という言葉に注目してみましょう。「新かな」だけで考えたら、この「お」の違いなんてことには、あるいは意識は及ばないでありましょう。

では、クイズ形式にしてみたらどうでしょう。あるいはこういう形にされると、気づく人もいらっしゃるかもしれません。

問:次の「お」のうち、仲間はずれはどれか。

 ア おばあさん イ おばさん ウ おかあさん エ おねえさん

いかがでしょうか?

文法的に、この「お」が「お菓子」や「お寿司」の「お(御)」と同じかどうかということに注目すれば、イの「おばさん」だけが異なることに気づきます。「お」を外して、常態にしたときに通じなくなるのです。合わせて、漢字表記を考えると、「御婆さん」または「御祖母さん」、「小母さん」または「叔母さん」「伯母さん」、「御母さん」、「御姉さん」となるので明らかです。

ところで、歴史的仮名遣いで書いてみます、「小母(叔母・伯母)」は「をば」と表記します。「小川」は「をがは」、「小野小町」は「をののこまち」です。「小」を「オ」と読むときの表記は「を」なのです。つまり、この問題の選択肢はこうなります。


 ア おばあさん イ をばさん ウ おかあさん エ おねえさん

現代かなづかいでは見えなくなってしまった日本語の姿を、歴史的仮名遣いは留めているのです。

そんなことどうだっていいではないか、今では同じ「オ」と読むのだからという意見も、それは理解できなくありません。そもそも現代仮名遣いはそういう発想で出来ていて、戦後我々はそういう発想で読み書きしているわけですから、そういう考えに陥りがちです。

しかし、歴史的仮名遣いは、「をばさん」と「おばあさん」とをかき分けることによって、それぞれの言葉の歴史や成り立ちを自然と知ることができるわけです。「歴史的仮名遣い」の「歴史的」とは、「歴史上使われていた、過去のもの」という意味合いなのでしょうけれど、逆にだからこそ「言葉の歴史をきちんと伝える仮名遣い」というふうにも解されるのですね。

発音と表記にズレが出てきて、たとえば四つ仮名(じぢずづ)をどう書き分けれるものかというようなことを日本人は長いこと混乱し、悩み、その解決のために、言葉の成り立ち、由来などをよく研究し、そこに根拠を求めようとしてきました。たとえば、「鼻血」は「はなぢ」なのか「はなじ」なのかという時は、もともと「血」だから「じ」でなくて「ぢ」だろうという考え方で、それはそのまんま現代仮名遣い採用されたわけなのです。発音が同じだからといって「はなじ」にしてしまってはいくらなんでもおかしいというわけですね。

「歴史的仮名遣い」のゆるぎない正しさというのはそこにあります。「正かなクラスタ」の人たちは、単に奇をてらうとか、知識をひけらかすためにしているわけでありません。言葉の歴史、成り立ちときちんと向き合っているのだと思っています。もちろん、彼らは言葉に関する意識だけが高いのでなく、よく勉強し知識も豊富です。

私自身は日常的には歴史的仮名遣いを全く使いませんが、わたしが「正かな同人誌」に参加している理由はここにあります。

その、正かな同人誌「正かなづかひ 理論と実践」の第3号が、11月の文フリ(文学フリマ、文学フリーマーケット)で発売になります。

20121029030012.jpg
→ はなごよみ:同人特設ページ
→ 歴史的仮名遣は生きてゐる - 「はなごよみ」公式ブログ

「第十五回文学フリマ」 開催概要
開催日 2012年11月18日(日)
開催時間 11:00~16:00→11:00~17:00に延長!
会 場 東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)
アクセス 東京モノレール「流通センター駅」徒歩1分
→ 文学フリマ - 第十五回文学フリマ開催情報



もし、関心のある方は文学フリマに出向くなり、あるいは、花ごよみのサイトでお求めいただければと思います。

萩原朔太郎の「死なない蛸」を読み返してみる。

2011-04-19-Tue
こんな話を見つけました。

ニュージーランドで猟奇的な事件があった。

28歳の男性が自分の指を切り落とし、野菜と共に調理し、食べた。
カンニバリズム(人間が人間の肉を食べる行為)は宗教的背景も含め歴史的には様々な事件があるのだろうが、自己カンニバリズムと呼ぶべきケースは稀少で、世界でもこれまでに8件しかレポートされていない。
 → Platinum Telescope:「【猟奇的】 自分の指を切断して食べたうつ病男性」(2011/04/19)

ちと生々しくなるでしょうか、こんな内容です。

行為に至る前、男は深刻な不眠症に陥り、自殺観念や指を切り落とす行為について数日間考えをめぐらせていたようだ。この観念から逃げ出す為、最終的に彼は電動ノコギリの刃で指を切り落とし、野菜と共に調理してその肉を食した。
 → 同記事


こういうことって、人間でもあるのですね。いや、ヒトは最も雑食な生命体なので、ま、あるとしたらヒトが一番ありそうなんですが、ま、記事によるとこれまでに8件の報告があるようです。このご時勢、自傷、自殺は恐ろしいほどの数がありますが、さすがに調理して食べるというのは、想像を絶するエネルギーが必要でしょう。恐ろしいです。

「人間でもあるのですね」と書いたのは、わたしが、蛸は飢えると自分の足を食すると聞いたことがあったからです。いつどこで聞いたのか忘れたのですが、高校時代に読んだ、萩原朔太郎の詩で知ったのかもしれません。けっこう知られた話らしいんで、それ以前から知っていたのかもしれませんが……。朔太郎は、おそらく今でもわたしの精神に巣食っている、我が青春の作家の一人です。

朔太郎の「死なない蛸」はこんな詩です。
 → 「死なない蛸」(http://nsss.tumblr.com/post/592972569)
 → 「死なない蛸」のとってもいい朗読のあるページ(「しゃべりたいむ」)

旧字旧仮名が読みにくい方のために、 
 → ヤフー!知恵袋:「萩原朔太郎の死なない蛸の解説をしていたたけないでしょうか?」

今日は、ちょっと、朔太郎の「蛸」を読んでみます。

「誌上のユートピア」展~愛知県美術館

2008-07-08-Tue
愛知県美術館で開催中の「誌上のユートピア 近代日本の絵画と美術雑誌 1889-1915」展に行ってきました。
sijyou.jpg

 → 愛知県美術館のサイト
 → 美術館連絡協議会:「誌上のユートピア」のページ

19世紀末から20世紀初めにかけての約25年間、まさに世紀末から新世紀へという、夢や希望にあふれる時代だったのでしょうが、科学技術の発達もあってさまざまな変革ががあったわけです。美術の歴史のなかにおいても「美術雑誌」が、印刷技術の発達とあいまって、盛んに作られ、また注目された時代だったようです。この「誌上のユートピア」展は、その時代の日本の美術雑誌を多数紹介しながら、「その芸術的価値を再認識し、同時代の近代絵画にも注目しながら、それらが相互に共鳴するさまをご紹介しようとする愛知県美術館の「見どころ」のページより)というのが中心です。

まず、サロメのピアズリーほか、ドイツやイギリスの「美術雑誌」が展示され、ヨーロッパの美術雑誌が紹介され、それが日本における『明星』や『方寸』などへのつながっていったというような感じで展示されているのだと解釈しました。わたしは美術展などは、好きでときどき見に行くのですけれど、今回の展覧会はとても興味深いものでした。

日本の近代の詩歌は、浪漫主義(「明星」「白樺」など)、写実主義(「ホトトギス」、「アララギ」)、象徴主義(朔太郎)などという文芸思潮で語られるのですが、美術的な展開もよく似た流れになっていたのだということが納得されました。『明星』の実物が見られ、一条成美(第6号表紙)が展示されて、10冊余りおの藤島武二の表紙が並びます。風俗壊乱で発禁になったという、一条成美の8号の挿し絵が見てみたかったですが、なかったのは残念です(この発禁処分の責任を取って一条成美は退社、藤島武二が表紙を担当するようになったのです)。
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5 イメージが髣髴と湧く素敵な詩集
5 そのときにしか詠めない歌を

▲この「みだれ髪」のデザインも、まさにアール・ヌーボです。


「白樺」の表紙はそれほどでもなかったのですが、北原白秋の詩集「邪宗門」の挿絵や、蒲原有明の「春鳥集」(読んだことはありませんでしたが)見られたのはおもしろかったです。美術と詩歌が非常に近かった時代だということを感じました。そして、恩地孝四郎や田中恭吉の「月映」と朔太郎「月に吠える」が最後のあったのですが、なんだか、ちょっと付録みたいな感じがしました。象徴主義ということになるのでしょうが、「明星」ほどの華やかさがないのですね。「三越」のようなのびやかな感じや、神坂雪佳のあたたかさもない、「月映」や「月に吠える」には、隠花植物のような、日陰というか、闇に光るというか、そういう、暗さが特徴のように思いました。うまく言えませんけれど。

個人的に作品としておもしろかったのは、岡本伊作の「宇宙」と田中恭吉の「バラの棘」。

「バラの棘」はなぜだかこちらに大きな画像がある。最初はバラの棘で顔が傷だらけかと思ったのだけれど、よく見たら顔中に「バラの棘」がくっついているということのよう。この女の人(?)はバラの精かなにかなのか、ま、「美しいものには棘がある」という言葉そのものを作品にしたのかもしれないのだけれど、この人の、ちょっとイタズラっ子のような目もいい。

「宇宙」はなんというか、「色鮮やかに輝くエネルギーの奔流」をそのまんま絵にしたような、すごい作品でした。習作なんだそうです。なんか、論文というか意見文の載ってる雑誌(「芸術と科学」だったかな?)が展示されていて、ガラス越しに読んだら、「写実を書かないわけではないが、写実を書いていると心だけではなくて、その回りのものも書かなくてはならなくなって、本当に書きたい心が薄れていく。本当に書きたい心だけを書くには抽象画でなければならない」みたいなことが書いてあって、ああ、理屈っぽいが、わかりやすかった。この文章を読む前に、「宇宙」を見たわけだけれど、まさに、闇に光る星々の総体が宇宙の写実なんだろうけれど、それは宇宙の本質じゃなくて、無限のエネルギーの奔流こそが宇宙の本質だと表現したいんだと思ったので、とても興味深かったのです。

そして、合わせていうと、これは、朔太郎の詩論にちょっと似ているんですね。朔太郎は「月に吠える」の序で確か、水を恐れる人を使って「詩とはなにか」を説明していました。「水が怖い」ということが言いたいのでなくて、「どういう具合に怖いのか」ということを表現するのが(朔太郎の)詩だと。

メインは藤島武二や「三越」、神坂雪佳なんでしょうけれど、わたしには、恩地孝四郎や田中恭吉の隣に西村伊作が展示されているがとてもよかったと思われました。それは、偶然か必然か、あるいは展示者の意図かはわかりませんけれども。

というわけで、いつか田中恭吉か西村伊作を尋ねるチャンスがあったらいいと思います。


▲今回の目玉の一人。神坂雪佳。

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