David the smart ass心のダイエット!~時には辛口メッセージを~ |
Title List
- 04/07 「現代のコンフィギュレーション」展~岡崎市美術博物館 - あいち・みかわ
- 04/04 「液晶絵画Still/Motion」展を見る~三重県立美術館 - シアター
- 10/02 ルーブル彫刻美術館への憧れ - シアター
- 07/08 竹中英太郎記念館(甲府市)を訪ねて - ラクガキノオト
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「現代のコンフィギュレーション」展~岡崎市美術博物館
三重県立美術館の記事の中で、
なんてことを、偉そうに書いているのですが、時系列からいうと、この三重県立美術館の記事は、この岡崎の「現代のコンフィギュレーション」展を見た直後に書いたものでして、むしろ、こっちの展覧会の感想というのが大きいと思います。わたしはこういう、現代美術にはえてしてこういう「屁理屈みたいななもの」(「屁理屈」というとしかられるんでしょうけど)があると思っています。美しいものを美しいとただ賞賛しているだけでは許されない、その美しさの背後にある、一種の努力とか、必死さとか、あるいは無理とか、犠牲とか、場合によっては欺瞞とか、欠落感みたいなものを、両方を合わせて描くのが、一つのリアルさであって、同時代を生きている人の作品に関する共感が生まれるのだと思うのですね。別にすべての作品にそれを求めるわけではないのですけど、そういう意図で作った作品は、そういう意図で鑑賞したいかなと、ま、とりあえずは思っているわけです。
ただ、「屁理屈」という言葉を使ったのは、残念ながらそれはなかなか美術の王道にまで育ちきっていないかなと思っているからです。つまり、なんというか、万人に共感を得るものにまでなかなか達しにくい、場合によっては作家の自己満足で終わったり、見る側の思い込みみたいなものに留まったり、けっきょく「わかる人にはわかる」というレベルになってしまいがちではないかと思うのですね。
たとえば、展示室に入るとすぐに、ちょっと厚めの薔薇の模様の織物の両端はそのままで、その中間をわざわざきれいに解いて、流れるように見せている作品(「弛緩する織物」)があるのですが、なるほど、オーソドックスでない実験的な手法で、新たな視点を与えてくれるという気はするのですが、だから何? と、こっちが挑戦されているような気分になったりもするものです。
また、「行人-性的人々」だったかな? 一人のみょうちくりんな人間を描いているのにタイトルが複数形とういような作品もあって(連作の一部なのかもしれないのですが)、題名と作品との段差を、見る側が必死で補わねばならないところがあって、ちょっと失礼な言い方に聞こえるのかもしれないのだけれど、作者はあるいは言語表現に不自由なので、絵画という手法で表現しているのかと思ったりするのですね。
そうかと思うと、大きなキャンバスに、色とりどりのアクリルの塊を、厚くちりばめたような作品があって、それは逆に作者自身(岡崎乾二郎)でさえタイトルを間違えずに記憶していないのではないだろうかと思われるような、200字近い題名がついているのがあるのですね。これは二つ展示されていて、今回の展覧会のポスターに採用されているような代表作であるらしいのです。確かにきれいです。
そんなものを見ていると、なんとなく、一種の屁理屈というか、わかる人にはわかるというようなそんなところに行っているんじゃないかなぁと思ったりしてしまうんですね。これはちょっと批判しているようにも聞こえるわけですが、ま、確かに疑問を感じてはいるのですが、同時に、こちらはそれを承知で見にいくというか、常識的な見方や、気づかないでいた新しい視点をもらいにいくというところもあるわけで、ま、脳みその別のところが同時に刺激されるというか、それはそれで快感なので結構なことなのですが、作者たちはそれで構わないのだろうかと、ま、ちょっと気を回したりするわけなのです。
わたしが気に入った作品は、八島正明の「階段」「帰路」などの作品で、肉体を描かずに、塀に映った影や、水溜りに映った姿、肉体を一切描かずに、駅の階段を上っていく数名の男女の後姿だけを描いた(まさに透明人間の群れが服を着て歩いているという感じ)作品で、現代人の虚無的な感覚と、その中の人間らしさが感じられてとてもよかったです。
もう一つは、3メートルもあるような大きな木を2枚、分厚い本を開いて立てるように置いてあって、こちら側が開いていて、奥は行き止まり(閉じられている)という作品です。オレンジ色を基調にした縦横のストライプが引いてあって、温かな閉塞感というか、行き止まりなんだけど苦しくないというか、ちょっと不思議な感覚になります。作者は佐藤勲。「MISSING LINK,DOUBLE BIND~NO SIDE 2」という作品ですね。
あと、菅原健彦の「無名の滝」もすごいです。墨と岩絵の具で、ふすま障子の紙みたいのに書いてあります。ひとことで言うとどうやって作るの~って感じ。どこまで偶然で、どこまで計画的で、どこまで修正でってところがなかなか興味深い。流れ落ちる水が白で、水しぶきが墨(黒い)なんです。おもしろい。
ほかにも面白い作品はあるのだけれど、こうして書き並べてみると、「現代美術は屁理屈的だ」と思ったのは、作品や作者の側に責任があるのではなくて、わたしが屁理屈的に作品をみているからにほかならないのではないかという気がしてきますね。もっと直感的な見方というか、色彩のおもしろさや、かたちのおもしろさを言葉を介さずに感覚的にわかる人が見たら、わたしの見方はなんとおもしろくない散文的な見方だと馬鹿にされるかもしれないと、ま、そんな気がして、ちょっと恥ずかしいです。
→ 岡崎市美術博物館
→ 〃 現在の展覧会
会 期
2008年 2月16日(土) → 4月13日(日) 休館(月曜日)
開館時間
10:00~17:00 *最終の入場は16:30まで
観覧料
一 般 300円
小中学生 150円
*岡崎市内の小中学生は無料。
*各種障害者手帳の交付を受けている方及びその介助者は無料。

「液晶絵画Still/Motion」展を見る~三重県立美術館

→ 三重県立美術館(その中の「液晶絵画Still/Motion」のページ)
簡単に言うと、最近ことに進歩の見られる薄型の液晶テレビ、そのきれいさ、細密さ、薄さに着目すれば、これはもう、キャンバスになるだろうというので、美術展ができるんじゃないかということですね。しかも、動画という形で。
知ったのは新聞の広告です。有名なフェルメールの「真珠の耳飾の女」(→Wikipedia)の、モデルとなったと思われる女性の前後の動作を想像し、ランプの下で読書していてふっと振り返る様子を液晶絵画で再現しているのですね。広告はそれを映画のフィルムを広げて見せるような感じで見せていました。実際の展覧室ではかなり大きな画面でリアルをそれを見ることができるのですが、目の印象は実際の絵とはかなり違ったもので、相当に、大人っぽく、そのあたりに作家(この動画を作った森村泰昌)の作家(フェルメール)に対する一つの解釈があるということだろうと思います。
▼展覧会に直接関係ないですが、フェルメールとモデルを扱った映画もあります。
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また、同じ作家の「フェルメール研究」では、「絵画芸術」(→Wikipedia)を、なんというか、画家の後ろ姿にもモデルがいたはずだろうというような解釈から「モデルを書く画家をさらに描く画家」という本当の視点が再現されています。現代美術にある、こだわりというか、屁理屈というか、知的な遊びみたいなものを感じました。
わたしはこういう、現代美術にはえてしてこういう「屁理屈みたいななもの」(「屁理屈」というとしかられるんでしょうけど)があると思っています。美しいものを美しいとただ賞賛しているだけでは許されない、その美しさの背後にある、一種の努力とか、必死さとか、あるいは無理とか、犠牲とか、場合によっては欺瞞とか、欠落感みたいなものを、両方を合わせて描くのが、一つのリアルさであって、同時代を生きている人の作品に関する共感が生まれるのだと思うのですね。別にすべての作品にそれを求めるわけではないのですけど、そういう意図で作った作品は、そういう意図で鑑賞したいかなと、ま、とりあえずは思っているわけです。
ただ、「屁理屈」という言葉を使ったのは、残念ながらそれはなかなか美術の王道にまで育ちきっていないかなと思っているからです。つまり、なんというか、万人に共感を得るものにまでなかなか達しにくい、場合によっては作家の自己満足で終わったり、見る側の思い込みみたいなものに留まったり、けっきょく「わかる人にはわかる」というレベルになってしまいがちではないかと思うのですね。
それを補うのが、やはり、表現力というか、描く技術というか、描く力だと思うのです。逆に言えば、ある水準以上の力を持った人がつくるとき、単なる「屁理屈」が、もう少しましな「屁理屈みたいなもの」にまで高められるというか、「屁理屈」という殻を脱皮して、一つの問題意識というか、問題提起として成功するのか思うのです。
あ、ちょっと入り込んでしまいましたね~。
ええと、このフェルメールを素材にした、一種のパロディというか、コサージュ以外にも、おもしろい作品はたくさんありました。大きな液晶テレビを屏風ふうに8枚並べた、動く墨絵の液晶屏風(→これ)や、肉や果物の静物画なのだけれど、ずっとそこに置いてあるので、カビが生えたり腐敗したりしていく、それを時間を短縮して見せているだとか、あるいは、ある庭園の池に飛び込んだ男がずっと出てこないのだけれど、その水面に映る風景の変化をずっと流しているものだとか、いろんな面を刺激される作品展でした。
・シャープやエプソンが協力しています。
2008年2月14日(木)-4月13日(日)
休館日:毎週月曜日、3月21日(金)
観覧料: 一 般 =900円(700円)
高・大生=700円(500円)
小・中生=500円(300円)
・( ) 内は20人以上の団体割引及び前売料金
・三重県立美術館メールマガジンの各最新号をプリント・アウトしたもの、もしくは携帯電話の受信画面を示していただければ、前売り料金でご観覧いただけます。
・身体障害者手帳等をお持ちの方及び付き添いの方1名は観覧無料

ルーブル彫刻美術館への憧れ
→ 獅篭blog:「ルーブル彫刻美術館」
ほんとうはマルッと転載したいくらいの気分なんですが、さすがにそれはアレなんで、獅篭さんところをごゆるりとご覧ください。圧巻です。感動します。流石、日本に二人といない、プロ漫画家兼落語家、着眼点が凡人と違うと思いながら、つけられたコメント、中でも遥海さんのコメントに感動します。
スゲェ~。同じように気づいて調べる方もいらっしゃって、調べれば調べられるんですね~。そして、ちゃんとその回答がわかるってのも、すばらしいですよ~。私も以前そのことで素朴な疑問を抱き、調べたことがあります
古代ギリシア人は割礼の習慣がなく、包茎が一般的な肉体の描写として採用されていたそうです。
割礼を行うエジプト人は野蛮な民だと考えており、あえて包茎を誇示しています。
ルネサンス彫刻は古代ギリシアの古典彫刻の影響を深く受けていますから、レプリカが包茎なのも当然なですよね。
古代ギリシアでは生殖器は包茎で小さいほうがよいとされていたんだそうです。
短小包茎=かっこいい、おしゃれ、見栄えがいいってことなんだそうで。
だから、みんなちっちゃいですよね・・・正直。
まさに時代とともに美の観念って変わるんですね~。
確かに。わが国でも、有名な「平安美人」の言葉があるように、「オカメのような下膨れの顔が美人」とされていた時代もあるし、そこまで昔じゃないですけど、「胸の大きい女は馬鹿(に見える)」というようなことを言われたこともあります。前者は「物資の少ない時代にあって、ぽっちゃりしてるのは家が富貴な証」みたいな背景があったのですが、後者となるとこんなものは「偏見」の最たるものではないかと思うのですけれど、もう、今ではスッキリした顔が好まれたり、巨乳が価値であり、豊胸手術などももてはやされています。確かに美の観念というのは、時代とともに変わるものです。
それでもペニスとなるとどうなのかなと思うのですが、「短小包茎=かっこいい、おしゃれ、見栄えがいい」というより、やっぱり、なんというか、品がいいというか、知的というか、理性的というか、そういうことじゃないかと思うんですね。野蛮でないというか、文化的というか。露骨よりいいというかね。
ああ、行ってみたいなぁ~ルーブル彫刻美術館。「門外不出の展示美術彫刻作品の実物から直接型を取って、実物と寸分たがわぬ姿で完成した」ってことです。すごいなぁ。触らせてくれないかなぁ~
→ ルーブル彫刻美術館のWebページ
実際触れたらほんとすばらしいんだけど……。

竹中英太郎記念館(甲府市)を訪ねて
とうとう、先日、出不精のわたしとしては、珍しく、クルマで出かけてしまいました。
愛知県から山梨県(甲府市とか、山梨市)にはどうやっていくのが正解なのでしょうか? 実は、出慣れていないわたしにはわかりませんでした。結局、行きは東名高速道路の豊田JCT東海環状道路、伊勢湾岸道路と抜けて、中央自動車道の飯田周りので甲府へ向かいました。甲府は、竹中英太郎記念館のある湯村温泉郷へ一泊し、翌日は横溝正史館のある山梨市へ。帰路は山梨市から、南下して、河口湖、山中湖と周りながら、御殿場から東名高速を西へ走るとういことにしました。どういうわけか横溝正史館は金曜定休でしたので、金曜に竹中英太郎記念館を見て、翌日土曜に横溝を見て帰るという計画にしました。
ほかにも、今季大河ドラマの「風林火山」の関連で、かなり信玄を核に観光客の誘致に力を入れているのですが、わたしの住む愛知も、戦国の英傑なら事欠かないわけでして、桶狭間だの、長篠だの、小牧長久手だの、戦国の旧跡もあったりして、別に競うわけではないのですが、風林火山ってことで誘致されても、さほど心は動かないわけです。しかし、竹中と横溝が両方あるらしいと聞かされると、もうなんか、ツボにはまるようなわけですね。
正直、竹中英太郎という名前をどのあたりから知っていたかというと、そのへんはちょっと自信がありません。ただ、乱歩の「陰獣」のあの独特の、一種の病的なものを感じさせる、幻想的というよりも、閉ざされた感じというか、皮膜がはったように霞んだ感じが、わたしには忘れられませんでした。また、ダリのタッチを思わせるような、人間の肉体を崩すというか、溶け出した蝋細工のようにデフォルメさせている、「盲獣」の挿し絵にみられるような感じ。まさに、「エロ・グロ・ナンセンス」といわれた時代の「エロ」と「グロ」を挿し絵でイメージつけていたのが、竹中英太郎の作品(正確にいうと「一部の作品」というのがいいかもしれませんが)なのです。
その記念館なら、ぜひ見てみたいものだぞと思って、わたしは出かけましたが、なんと、「本日は都合により休館させていただきます」というプレートが……。

あのさ……。わたしは、今日このために来たのですよ。愛知から……。高速代6000余円にガソリン代、宿泊費……。それを、こんなプレート一枚で……。わたしは、へたりこみました。
確かに、そういうことはあります。公的なものではなくて、個人のものですから。都合により休みにしたいこともあるでしょう。人はいろんな事情があるものですから。一人前に世間様とつき合っていれば、よんどころない事情はあるものです。平日に開館してもいても、確かに一日どれくらいの来客があるものか、このロケーションと、竹中英太郎では、わからんでもない。理解します。……しかし、もの好きなわたしは、愛知からはるばる来てしまったのですね~。代替の案などない(県立美術館でもよかったのですが、幸か不幸か、山梨県立美術館のメインは、4月に岡崎で見た『シュルレアリスム展-謎をめぐる不思議な旅』だったのです。
看板にある電話番号二つに電話してみました。クレームというのでなしに、明日開館しているかどうかを聞きたかったのです。でもでませんでした。わたしは、あきらめて、宿に戻り、やむなく、信玄関係の散策に出かけたのでした。大河ドラマの「風林火山」の勢いもあって、駅前で風林火山博なんてのをやってましたので、ま、いい時間つぶしにはなりました。(→甲斐の国 風林火山博)
宿について、宿のロビーのマガジンラックに黒い一冊の画集を見つけました。

昨年、竹中英太郎の生誕百年を記念して出版されたものです。一般の書店にはなくて、記念館で求めるか、ホームページの通信販売(→こちら)でしか入手できないもののようです。
わたしは、部屋でその画集を開きながら、このまま見ないで帰るのはどうしてもおもしろくないと思いました。もう一度、電話をしてみましたが出ないので、あるいはと思って、ダメ元でauのCメールを送ってみました(メルアドでなくて、番号にメールするいわゆるショートメールです)。
はじめまして。愛知から竹中英太郎館を訪ねてきました。休館でした。明日は見せていただけますでしょうか?
それだけの文面です。そうしたら、相手にCメールが届きました。あっちもauだったのです。これで、とりあえず、こちらの意思は伝えることができたと思いました。
~以下追記~
