David the smart ass心のダイエット!~時には辛口メッセージを~ |
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義捐金の「捐」は表外字なので……などと言いつつブログパーツを貼る
遅ればせながら、被災者の方にお見舞い申しあげますとともに、お亡くなりになられました方のご冥福をお祈りいたします。合わせて、対策復興にご尽力をいただいているすべての皆さまに心よりエールを送りたいと思います。
さて、ちょっと前のことですが、地震から3週間あまり過ぎて、今回の東北地方太平洋沖地震やそれによってもたらされた大津波などの一連の災害の名称が「東日本大震災」ということに正式に決まったようです。
→ スポニチ:「「東日本大震災」と命名…政府が閣議決定」
福島原発の事故も当然その一部に含まれるのだろうけれど、なんだか、釈然としない人たちもきっといるんだろうなと思っています。被災者側でなく、ひょっとしたら、政府内にです。つまり、地震や津波はあくまで自然災害だが、原発は東電や推進派たちの責任で自然災害じゃないという視点です。うまく言えないけど、元々自分は原発反対派なのだから、原発事故の後始末なんてとばっちりみたいで乗り気になれないって感覚があって、それが、国としての対応や発表を遅らせているのではないかと、邪推したりしています。だって、そんな気がしてならないもの。
幸いにして、わたしの身内に直接の被災者はいないと思っていたら、先日、関東地方にいる従兄弟の奥さんのご実家が東北で、津波にやられたということが耳に届きました。多くの死者や不明者が出ている状況で、一家全員無事だったのは不幸中の幸いと喜んでいるけれど、家屋財産すべて流されてしまい、避難所生活だというのです。職場にも、ご子弟が福島県に下宿していて心配でしかたがないと繰り返している方や、東京にいる遠い親戚が、赤ちゃんのために水を送ってほしいと伝わってきたと言っている方や、直接的に影響はなかったが、計画停電などもあって、春休み中妹一家が戻ってきていたという人などなど、いろんな形での具体的な影響がありました。どなたも、そうなんではないでしょうか。
そうして個人的に身内に援助しているのに加えて、さらに、著名人や団体そして無名の個人などのさまざまな支援が報道されています。いろんな寄付や激励、チャリティー、そして義援金。ま、わたしの周りでも、職場の関連や町内会などで、さまざまな形で寄付というか、支援を求められています。店頭の募金箱も、どの店にも置いてあるのですが、さすがに、毎日、目に付いたものから入れるというわけにもいきませんが、赤い羽根のときとは違って、一度でなく、繰り返し、長期間の支援が必要なんだろうなと、ま、思ってはいます。同時に、できる形でやればいいと思うものの、これで十分なのか、どういう形がいいのかと悩んだりもします。
さて、この義援金の「援」は代用漢字です。本来的は「義捐金」と書くのですが、常用漢字(当用漢字)になかったことから「義援金」と書くことになりました(この事情は「障碍」を「障害」と書くようになったなど珍しいことでもありません)。
→ Yahoo辞書:「捐」
→ コトバンク:「義捐」
→ 過去記事:「「障害」「障がい」「障碍」」
「義捐金」と書いてる記事もありますね。
→ NEWSポストセブン:「大震災 「義捐金」と「支援金」「救援募金」の違いとは何か」
「存」や「在」の三画目は上に突き出すか?


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ん? わたしは(以下






わたし(

→ 過去記事:「「聞く」という漢字の「耳」ははみ出すか?」(2007-09-15付)
このときは「「耳」という漢字の5画目(一番下のよこ棒)が右に貫くが、「聞」のときはどうか」という問題であり、今回は「存」や「在」の3画目は上に突き出るかどうかという問題なのです。どちらが複雑かというと、「耳」の方が複雑な事情がありますよね。「耳」の時は貫くのが普通ですが、じゃ、「聞」や「聴」のときは貫くの、貫かないのってな話になって、ま、二段階なんです。
ただ、結論から言えばはっきりしていて、「聞」も「聴」も「存」も「在」も答えは同じで、「少なくとも文科省はどちらでもいいと言っている」ということになるんですね。
過去記事(「俺はダメなのかよ、常用漢字。~新常用漢字案の案」)で書いたのですが、近年見直しをされていた「改訂常用漢字表」が、この夏正式にスタートしました。その中に、漢字の字体について次のような記述があるのです。
で、問題の「突き出すか、突き出さないか」(「貫くか、貫かないか」、「交わるか、交わらないか」)に関しては、次のような用例をあげています。ここに挙げているデザイン差は,現実に異なる字形がそれぞれ使われていて,かつ,その実態に配慮すると,字形の異なりを字体の違いと考えなくてもよいと判断したものである。すなわち,実態として存在する異字形を,デザインの差と,字体の差に分けて整理することがその趣旨であり,明朝体字形を新たに作り出す場合に適用し得る デザイン差の範囲を示したものではない。また,ここに挙げているデザイン差は,おおむね「筆写の楷書字形において見ることができる字形の異なり」ととらえることも可能である。
→ 参考:改訂常用漢字表(PDF)

つまり、これらの字については、デザインの違い、つまり、どちらが正しく、どちらかが間違いというではないということを認めたのですね。
それはそれで妥当な結論といえるでしょう。「士」と「土」や「未」と「末」のように違う字が存在しないのならば、実際全く困らないわけです。困ってないから、実際、いくらだって流通しているわけなんですね。
というわけで、「どっちだっていいと考えて全く不都合はないようだよ」というのが、T


映画:「蟲師」~DVDで
そもそも、「虫」は象形文字で、蛇のマムシをかたどっているといわれています。上の四角の部分が毒蛇の大きな頭で、下のムみたいな部分がとぐろを巻いている様子ですね。
ところが、その「虫」を三つ集めた「蟲」という字ができました。「森」とか「品」とか「晶」とか、そういうつくりかたの漢字はあります。「蟲」は「小さな虫」という意味で、ウジ虫みたいなものを言っていたようです。ところが、「蟲」の略字として「虫」と書かれることになってしまい、当初は「虫」の字と「蟲」の字とを遣い分けていたのですが、区別なく「虫」と書くようになったようです。
→ 漢字家族:「蟲(虫)」
こんな扱いでは、蟲だけに虫がおさまらないだろうと思うのですが、この「虫がおさまらない」とは、非常に憤慨し、腹が立って腹が立って仕方がない状態ですね。「腹の虫がおさまらない」ということもありますね。
また、期限が悪くイラついているときに「虫の居所が悪い」なんて言うことがあります。また、赤ん坊が夜泣きするときに「かんの虫がついた」などといいます。ついでにいうと、空腹のとき「腹の虫」が鳴いたりもしますし、嫌なことがありそうなときには、虫が知らせてくれることもあります……。
ま、こんなふうに、身体の中には虫がいて、それがその人の心身にさまざまな影響を与えるという見方をしていたんですね。--ところで、脱線しますが、先日「「病(やまい)は気から」とは「気の持ちよう」ではない!」という記事を読みました。
医学といっても、現代の西洋医学のことですが、進歩してなかった時代には、「病気」もこのような「(陰陽五行の)気」の影響だと考えられていたのですね(というか、そもそも「病気」という言葉の「気」はその意味なのでしょう)。Yahoo!辞書に収録されている『大辞泉』と『大辞林』では、次のように解説されている。
『大辞泉』=「病気は、その人の心の持ち方しだいで軽くもなるし、また重くもなるということ。」
『大辞林』=「病気は気の持ちようで、重くもなれば軽くもなる。」
国語辞典に記されている意味がスタンダード(正式)な意味ということになるから、国語のテストで「病は気からの意味を述べよ。」という設問があったとすれば、「病気は、その人の心の持ち方しだいで軽くもなるし、また重くもなるということ。」、もしくは「病気は気の持ちようで、重くもなれば軽くもなる。」と記入しておけば加点してもらえる。
ただ、本来の意味は“中国哲学”や“中国医学”でいわれるところの「陰陽五行の気」であって、「気持ち」でも「心の持ち方」でも「気合い」でもない。
「陰陽五行の気」の働きによって、人の身体と心を適正な状態に保つというのが、「病(やまい)は気から」の本来の意味なのだ。
→ 一言録‐Itigenroku‐Ukyou's Blog ;「「病(やまい)は気から」とは「気の持ちよう」ではない!」」
そして、「気」というほどでもないが、もうちょっと別の理由も考えられたわけで、中には「狐つき」や「祟り(たたり)」みたいなものと考えられたりしたものもあったのでしょうけれど、「身中の虫」に原因を求めるものもあったのですね(そういえば、「獅子身中の虫」なんて言葉もありますね)。
そうして、害をなす「蟲」がいれば、「虫封じ」をする者もいるわけでして……・、それが、「蟲師」ということになるわけです。そんな蟲を信じているので、江戸時代かなんかだろうと思っていたら、映画中に、山間の農村部を旅しているシーンがあって、「このあたりにも電気がひかれ電灯がつくので明るくなりますね」みたいなことを語っているのです。ちょっと検索してみると、時代的には、明治または大正の頃ということになるかと思います(予告編では「100年前の日本」と言ってます)。
その、明治の日本の山村で、蟲師ギンコ(オダギリジョー)はひたすら何かを求めて旅をしています。過去の記憶を失っている彼は、自分の過去を知る人を求めて旅しているようです。あるときは、耳の聞こえない男を救い、また、あるところでは角が生え、騒音に悩む少女を救います。虹を求める男(大森南朋)と出会い、また、数少ない理解者で蟲の記録をとる家柄の淡幽(蒼井優)のピンチに馳せ参じます。そうして、旅していくうちに、自分が蟲師になるきっかけとなった運命の女ヌイ(江角マキコ)と再会する……、そんな話です。
蟲師の世界観というとちと大袈裟か、蟲師のいる世の雰囲気を味わうにはいい作品だと思いますが、ちょっと淡々と描かれちゃったかなという気がします。江角さんがあんなに泥まみれになったんだから、もっと、どろどろの怨念というか、執着で、ギンコが苦しむのはなかったのだろうかと、思ったりしました。
大森南朋は存在感ありますね。
今年の漢字「変」はブロガーが選んだものと同じ。
平成20年の世相を表す漢字は「変」-。日本漢字能力検定協会が公募で選ぶ「今年の漢字」に「変」が選ばれ、12日、京都市東山区の清水寺で、森清範貫主が縦約1・5メートル、横約1・3メートルの和紙に文字を大きく揮毫(きごう)した。
→ iza:「今年の漢字は「変」 金融危機、食の安全、日米トップ交代…」
記事にもありますが、株価暴落や円高ドル安など金融情勢の変動、異物混入に代表される食の安全性に対する意識の変化、日本の首相や米大統領の交代など、政治的な変革などが理由などとあります。「ノーベル賞受賞や北京五輪など、日本人の活躍に良い変化があった」というようなことも書かれていますけれど、やっぱり地球温暖化の影響か異常気象というか気象の異変もあって、わたしにはいい意味ではあまり受け取られませんでした。
今年は過去最多の11万1208通の応募がありって、「変」は6031票(5・42%)で1位。続いて「金」「落」「食」「乱」などが多かったということですが、選ばれた「変」は先日発表になった、ブロガーが選ぶ今年の漢字と同じ結果でした。
→ 過去記事:「「ブロガーが考える今年の漢字」は「変」~ブロガーイベント」
同じように書道によって、大きく表されたのですが、実際の字体はちょっと違ってました。
▲ブロガーが選んだ「今年の漢字」の発表写真(シブヤ経済新聞より)
▲日本漢字検定協会が公募して選んだ「今年の漢字」の発表写真(時事通信より)
そうです。今日の発表の写真(下)は「変」なのに対して、上の写真(先日の「ブロガー……」)は「變」、旧字体です。どっちがいいとかいうこともないのでしょうけれど、「變」と書いた書道家の森大衛はブログ「書道家 森大衛の“書道神経を磨け”」の中で、
と書いています(→「變(変)」)。どっちがより変なのかはわかりませんが、旧字の「變」の方が本来の形ですので、そもそもの字義をよく表しているということは確かでしょう。「変」と書こうか「變」と書こうか悩んだ森大衛ですが、
「変」っぽいのは「變」だろうと「變」と書きました。
そこで、「變」の字義について、ちょっと調べてみます。
「變」の上半分は「糸」と「言」と「糸」からなっています。「糸言糸」ですね。これは、「恋」の旧字体「戀」や「野蛮」の「蛮」の旧字体「蠻」も同じです。「痙攣(けいれん)」の「攣」にも使われています。また、「湾」の旧字体も「灣」で「糸言糸」が一部と使われているのです。「攣」を除いては、新字体の採用の時に画数を減らした簡易な字体になったというわけです。
では、この「糸言糸」はどういう意味なのでしょう。組み合わせているもので、「もつれた糸」と「言葉ではっきりと言う」ということの組み合わせで、「もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられないこと」、「容易で言葉では断ち切れない様子」を表しているようです。「恋」はそういう心だし、「痙攣」の「攣」は「絡んで引きつっているような手」ということなのでありましょう。
また「變」の下半分「夂」は「足」を表しています。それも着実に歩むような力強い足ではなくて、ひきずって歩くような、所謂「足ずり」です。「憂鬱」の「憂」にも「恋愛」の「愛」にも、辛さやせつなさから足をずるほど悄然としているという様子がうかがえるわけです。
「變」は、そうした「はっきりと断ち切ることができず、絡み合って引きつっている」という意味と、「重い気分、辛い気分で足取りが上手く進まず、足を引きずっている」という意味とが重なり合ってできている字ということのようです。そういわれると、今年一年の世相を表す字として、いかにもピッタリという感じがしますね。
◆参考
・語句楽散歩ブログ:「糸言糸」
・漢字質問箱:「愛 恋」
書きたいことは書きましたが、上記の新聞記事に過去の「今年の漢字」も載ってましたので、参考までに引用しておきます。
いい意味の字というのは「金」「帰」「虎」(いい意味の字とは言えないが悪い意味ではないと思うので)「愛」「命」で、一応3分の1くらいはあるんですね。1995年 「震」/1996年 「食」/1997年 「倒」/1998年 「毒」/1999年 「末」/2000年 「金」/2001年 「戦」/2002年 「帰」/2003年 「虎」/2004年 「災」/2005年 「愛」/2006年 「命」/2007年 「偽」
