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David the smart ass

心のダイエット!~時には辛口メッセージを~

観劇:「さんしょう太夫」~前進座公演

2012-07-07-Sat
観劇の市民サークルに入っています。しばらく、観劇スケジュールが合わずに見そびれてきましたが、今月の前進座公演「さんしょう太夫」を見ることができました。
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→ 前進座「さんしょう太夫」の公式ページ

「さんしょう太夫」は「山椒大夫」の話であり、「安寿と厨子王」の物語です。

簡単に言えば、平将門の孫というような高貴な身にありながら、旅先で人買いにたぶらかされた姉弟が、「山椒太夫」に売られ、過酷で不慣れな奴隷として生活を強いられる。その後、弟が脱出し、出世して復讐するという話で、離別した母との再会のシーンもあります。

そもそもは、説経節「さんせう太夫」が元の話です。脈々と日本に伝わり、明治の文豪森鴎外が小説「山椒大夫」として書き、後に映画化されるなどの有名な物語で、わたしは、子供向けの本で「安寿と厨子王」を読んでいました。

壺齋閑話ブログ:「さんせう太夫(山椒大夫―安寿と厨子王の物語)」によると、説経節の「さんせう太夫」について「物語の比重は、迫害を受けるものの悲哀と苦しみに置かれており、故なき差別や暴力への怨念に満ちたこだわりがある」とあります。

つまり、中世の日本における支配する者とされる者との間の「厳然とした溝」、「過酷な対立」が背景にあって、説経節「さんせう太夫」は、こうした下人たちの境遇に中心があるというのです。

説経を語る者たちも、定住の地を持たぬ漂泊の民であり、「ささら乞食」として差別される身であった。その彼らが語ることによって、故なく貶められていた人々の情念が乗り移り、物語に人間の叫びを伴わせた。聞くものをして身を震わせ、今日の我々にも訴えかけてくるものは、この人間の魂の叫びなのである。
→ 壺齋閑話ブログ:「さんせう太夫(山椒大夫―安寿と厨子王の物語)」



これに対して、鴎外の小説「山椒大夫」ですが、もちろんあらすじは説経節を踏まえているが、中心は「親子や姉弟の骨肉の愛」で、そこが今でも人の心を打つと言うのです。

鴎外は人間の感情の普遍的なあり方に比重を置くあまり、原作の説経が持っていた荒々しい情念の部分を切り捨てた。安寿とつし王が蒙る、悲惨な拷問の場面や、つし王が後に復習する際の凄惨な光景などは、余分なものとして切り捨てたのである。
→ 壺齋閑話ブログ:「さんせう太夫(山椒大夫―安寿と厨子王の物語)」


今回の「さんしょう太夫」は、鴎外の「山椒大夫」でなく、説経節「さんせう太夫」を芝居にしたもので、わたしが子供の頃読んだ「安寿と厨子王」は鴎外の話に近いものだと、ま、芝居を見て思いました。たとえば、山椒大夫の子の三郎が、残酷な拷問で安寿を責め殺す場面はありませんでした。確か、おぼろげな記憶では、池に身を投げたとなっていたような。舞台では今時のテレビではここまでしないだろうというような残酷な責めも展開されます。息の途絶えるところまではやりませんが、炎をあげる火櫃に顔を押し付けるところはあります。

なぜ、かくも残酷な場面をこれでもかというほど描くのか。それは説経節が、主人の側の物語でなく、大衆や奴婢のサイドの物語だったからですね。かくまで残酷な仕打ちがどれほどあったかどうかはわかりませんが、中世の格差社会は相当であり、こういう共感は民衆にとってはカタルシスであったのでしょう。なにより、身分の差なく信仰あるものを救う姿を描く「説経」そのもののの役割に必要だったということなのかもしれません。

そういう意味で、というのは、説経という意味で、この「さんしょう太夫」はよくできているのかもしれません。別れに当たって、母が姉に与えた地蔵菩薩像は二人をよく助け、また、弟を逃した折に姉が弟に託してからは、弟をよく助け、一方で姉を苦しみに追いやります。地蔵菩薩を持った弟は追手から逃げ延び、出世を果たしすことができます。地蔵菩薩像を持つものには奇跡が起きに、家族のためであっても、身から離したものには辛い運命が訪れます。

そもそも説経とはそうしたものですが、それをそのまんま芝居にしているので、実は現代の視点で見ると、ことのお地蔵様のご利益が、少しばかり鬱陶しく感じられますね。もうちょっと控えめならばとおもいます。ま、そうしたものにいちゃもんをつけてもしかたがないのですが、もう、この話はテーマは、極悪非道な山椒太夫でも、かわいそうな安寿と厨子王でもなく、ありがたいお地蔵さまになってしまうのですね。ま、そういうものだと思ってみればいいわけですけど。

逆に言えば、現代の格差社会に、お地蔵さんはいないということでもあります。

大学を出ても仕事がなく、あっても、労働条件は厳しく過酷になるばかり。一部の大企業は内部留保をたっぷり持ちながら、また行政改革などちっとも進まない中、消費増税案だけが衆院を通過してしまっているのです。消費増税をしないと言って勝った民主党と、消費増税をしますと言って負けた自民党が手を組んで、法案が通ってしまう世の中です。民意を充分知っていながら、平気で自分たちの都合で動く政治家たちが、山椒太夫に見えるばかりで、どこにもホトケはみあたりませんね。

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観劇:「妻と社長と九ちゃんと」~劇団青年座公演

2011-11-27-Sun
演劇鑑賞の市民サークルに入っています。今回の例会は劇団青年座の「妻と社長と九ちゃん」という、古き良き昭和の文房具メーカーの世代交代の話です。世代交代には、平成から昭和へ、バブルの崩壊から国際化、グローバルスタンダードの時代の波が押し寄せる、経済的な背景は、もちろん無縁ではありません。企業が大きくなればなるほど、守旧的なだけではやっていけない、新しい波をいずれかの方法で受け入れなければならないのでしょうけれど。
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→ 劇団青年座:「妻と社長と九ちゃん188」のページ

現代の世代交代の話なんですが、こういう話は日本ではもう、わたしの子どもの頃からずっと続いています。たぶん。日本だけでなく、どこの国でもどの時代でも、どんな組織でも、新しい世代が古い理念や手法を否定するというのは、もういくつも繰り返されて来たのでしょうね。

この芝居のようにそれがメインテーマになっているかどうかは別にして、わたしが読んできた小説や見てきたドラマなどでも扱われてきました。古くて新しいテーマというか、永遠のテーマになるのでしょうね。芝居はおもしろく、脚本も四季と起承転結をうまくマッチさせていて、ポスターのワンポイントにもなってる梅の伏線もよく効いていていい出来ばえで、楽しんで見ました。ま、役者がテレビのような芝居でなく、大きなホールであるということを考えて、もう少し客の方を向いて台詞を言ってくれるとよく聞こえたと思うので、その点はやや残念でした。自然な演技を優先し、結果横を向いて声の通らない役者の台詞が聞こえない……。全体のテーマがわかればそれでいいというつもりかもしれませんが、ま、そんなら、テレビなり映画にみればいいわけですのでね、ま、創作サイドもホールに応じた演技の工夫を考えるべきですね。大ホール向けではないから、オファーを断るとかさ。ま、そもそも、そういう劇団はオファーしなきゃいいのですけれどね。見ないとわからないだけに、きちんと記録をとっておかないと。


観劇:「ミュージカル天切り松人情闇がたり」~イッツフォーリーズ公演

2011-09-21-Wed
たびたび書いていますが、演劇鑑賞の市民サークルに入っています。

今回は浅田次郎原作のミュージカル「天切り松人情闇がたり」でした。大正ロマンの時代の義賊です。ふと江戸川乱歩の怪人二十面相などを連想させるような、変装の達人で、百面相の常なんてキャラも登場します。戦前の日本は格差社会です。華族あり、財閥あり、大地主あり。個人の力量や才能の前に、氏育ちが問題でした。上級学校へ進学するのに金が必要なんですから。生まれがよければ最初から勝ち組で、貧しいものは成りあがるチャンスはほとんどなかった。そんな時代だからこそ、義賊が生まれ、また、語られるわけなんですね。金持ちから宝を奪って、弱き庶民に分け与える。人情味のある義賊の伝説が生まれるのです。今回はそんな義賊の話でした。

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→ ミュージカルカンパニー「イッツフォーリース」のページ

タイトルの「天切り」とは泥棒の手口です。屋根瓦の一枚を剥ぎとり、その穴から忍び込み仕事をやり終えたあとまた天井から同じ穴を通り外に出る。こうして屋根瓦を元に戻して逃走する……これが天切りです。江戸時代から伝わるこの技を得意としていた松蔵だから、天切り松というわけです(芝居には出てきませんが、原作小説には村田松蔵が「天切り松」と呼ばれるに至ったエピソードがあるそうです)。

ただ、この物語は天切り松自身の冒険譚という要素はむしろ少なくて、松蔵自身は語り手です。ホームズ物語のワトソン役なんですが、少年時代の松蔵は伝説の技を持つ先輩たちの仕事っぷりの目撃者であり、あるときは有力なパートナーでもあったわけで、明智探偵に従う小林少年のようでもあります。

幼い松蔵は博打打ちだった父親にある一家にあずけられます。それは泥棒や掏りを束ねていた銀次親分の一家です。家庭でなくて、悪のシンジケートという意味の「一家」ですね。人情味に厚い銀次親分の一家には、親分の心を汲んだ、天才的な義賊たちがたくさんいました。義賊と言っても、厳密には犯罪者には違いないんですが、弱い者に同情し、強いものから巻き上げるという筋を通す姿は、松蔵少年にとってはヒーロー以外のなにものでもありません。大きくなったら立派な泥棒になると、松蔵は誓って育つのです。

すっかり老人になったなった松蔵は今は引退し、なんと警察に協力しています。捜査協力の傍ら、刑務所に泊り込んで若い受刑者たちの更生に役立てばと話をしています。そこに出てくるのは、松蔵少年からみたヒーローともいうべき、銀次一家のすご腕の泥棒たちです。タヌキの寅弥、振袖おこん、百面相の常、目細の安など、惚れ惚れするほど粋で、そのいっぽうで人情に厚い、そんな一癖ある連中の活躍した話を語って聞かせるのです。その話がおもしろく、また感動的でさえあるので、若い受刑者は胸を打たれ更生を誓うものもいます。受刑者だけでなく、刑務官たちまでも松蔵の話を楽しみにしているという具合です。

観劇:「しのだづま考」~京楽座公演

2011-07-08-Fri
観劇の市民サークルに入っています。サークルは演劇鑑賞会に所属し、それは全国演劇鑑賞団体連絡会議(→Wikipedia)という全国ネットとして広がっています。もちろん、先日大被害を受けた東北地方にも同じような組織があるから、ぜひ、資金的に援助をしようというようなカンパなんかも募っているのです。

「しのだづま考」という、中西和久のひとり芝居でした。中西和久は先日エノケンの舞台を見たばかりで、おもしろかったので楽しみにしていたのです。今回の主人公は喜劇王とうってかわって、安部晴明とその母の物語ということになりますね。
 → 京楽座のページ
 → 「しのだづま考」の公式ページ
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タイトルの「しのだづま」は「信太妻」と書いて、「葛の葉(くずのは)」と呼ばれる、安部晴明の母の物語です。安部晴明といえば実在の人物ながらも、伝説の陰陽師として平成のこの世でも有名な人物なんですが、彼には所謂超能力があったということになっています。そのようなこの世のものとも思われぬ超能力を得たのには、母が狐であり、狐から秘術を授かったからということなんですね。その母の名が「葛の葉」でして、通称「葛の葉物語」「信太妻(しのだづま)伝説」などと呼ばれています。詳しいわけではなくて、この記事を書くために調べているのですが、古くからさまざまな文学、歌舞伎、浄瑠璃、文楽、説教節、瞽女唄(ごぜうた)、落語などの文学や芸能にとりあげられ、ジャンルでとりあげられて、テレビ時代の今ではすっかり忘れられてしまっているようですが、それまでは、たとえば義経弁慶の話であるとか、大泥棒石川五右衛門の話などと同じように、有名なエピソードだと言えるんでしょう。ま、平成今でも安部清明はスーパースターのようですが。※ちなみに「信太」は「しのだ」と呼んで地名です。
 → Wikipedia:「葛の葉」
 → 信太の森ふるさと館「葛の葉物語」

で、この「しのだつま考」は、こういう葛の葉伝説の中の説教節を中心して作られています。歌舞伎や講談、文楽といったさまざまの古典芸能の要素を取り入れ、太鼓を叩き、三味線を弾き、ウクレレまで弾いて(?)、一人で27人の役を演じわけるとともに、いろんな芸能の演者を演じていると言えのです。ここがうまく説明できないのですが、たとえばさまざまな狐が出てきます。着ぐるみもなにもないのですが、すまし顔で両手をキュッと握ってポーズをとるのはおそらく歌舞伎あたりに取材しているのでありましょう。また、途中で頭だけの白狐を右手の先で持ち表現している場面も出てきます。あの動きは、わたしがみただけでは、文楽なのか人形浄瑠璃なのかあるいはそれ以外の何かなのかわからないのだけれど、見る人がみたらどういう古典芸能に由来する(ということは、それを学び、稽古し、演じていることなんですが)だとか、別のあの狐は能によるのだろうだとか……そういう古典芸能の特徴を取り入れて演じているわけで、古典芸能の世界に詳しければ詳しいほど楽しめる、奥深い作品になっているのですね。

目の肥えた観客を唸らせる一方で、あたかもテレビのCMタイムのごとく、作中人物からふっと講釈師のような中西が登場し、現代人の視点からわかりにくさをフォローするというような趣向にもなっています。は? 母親が狐だなんて意味がわかりません。超能力って何? という現実主義者たちにも飽きさせない工夫とと言えるのかもしれません。1時間45分。中西和久が27人の役を一人で演じ、さまざま演じ方をする、そういうおもしろさがあるのです。

演出もおもしろく、これはすごい作品なんですが、やっぱりテーマ性を考えたいんですね。わたしは。 

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