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David the smart ass

心のダイエット!~時には辛口メッセージを~

映画:「さまよう刃」~劇場で

2009-10-22-Thu
東野圭吾原作の、少年による残虐な犯罪の被害者をテーマとした映画です。


 → 公式サイト

こういう根源的テーマの作品は好きなのですが、正直わたしは、長嶺(寺尾聡)よりも、犯人の少年たちの事情をもう少し知りたかったです。

いや、法の下の平等ですし、私刑は禁じられているわけですんで、極悪非道な少年たちであろうと、被害者の父親が復讐していいことにはなっていません。被害者がいかに家族に愛され、被害者の父にとって必要な唯一の家族であろうと、そしてよりにもよってあんな凄惨なビデオを見せられるはめになって、それは気持ちはわかります、誰だって……。しかし、父親自らが復讐の刃を持つことを、少なくとも現代の日本の法律は禁じています。

長嶺は、比較的冷静で、落ち着いた、もの静かな人柄だと思います。しかし、犯行のVTRを見たときに「復讐」を思いつくわけです。もちろん、それが単純な復讐というよりは、現代の少年法の下で、非常に軽い「刑期」で、「更生」したものとして社会に戻ってくるというその仕組み自体を、まさしく命がけで問うているわけです。

こういうのは「ある種の確信犯」と言っていいと思います。

ややもすると「確信犯」とは、「悪いことと承知であえてする」というような形ばかりの解釈で理解されがちですが、それは不足です。むしろ、犯罪の多くは法に触れるとわかっていてされています。そんなことではなくて、

確信犯(かくしんはん)(独; Überzeugungsverbrechen)とは、道徳的、宗教的あるいは政治的な確信に基づいて(つまり、自分の行動の“道徳的・宗教的あるいは政治的な正しさを確信”して)なされる犯罪のこと。(Überzeugung:確信 Verbrechen:犯罪)ドイツの刑法学者グスタフ・ラートブルフの提唱による法律用語。いわゆる義賊やテロがその代表例である。
 → Wikipedia:「確信犯

というような説明がなされます。

果たして、「自分の行動の“道徳的・宗教的あるいは政治的な正しさを確信”して」と言えるほどにまで、確信していたか? というと疑問は残ります。「現行制度の不十分さ」を確信していたとはいえるだろうが、果たして、残虐な犯人とは言え、若者二人の命を奪うことが、「道徳的・宗教的あるいは政治的な正しさ」と言えるかというと、そこは疑問です。

典型的な確信犯といえるのかどうか、わたしはちょっと決め手がないのですが、犯人は現在の法制度が不十分であるというアピールを持ってこの殺人をしているということは言えると思うのですね。

禅問答や、屁理屈の好きなわたしは、だから、こういうテーマの映画は好きです。

ただ、なんでしょう、被害者(の家族)の気持ちは、別にここまで映像にされなくてもわかるんですってことですね。また、それを追わねばならない刑事たちの気持ちも、わかるってことですね。法律の限界というよりは、現実の限界だと思うんですね、覆水盆に返らず。どんなに法律が整備され、あるいは、犯人の少年たちが「更生」するプログラムが見つかったからと言って、死者は戻ってこないし、家族を失った苦悩や悲しみ、絶望は癒えることはないってことです。どれだけ爆発させても憤りや怒りは消えないということです。それは、その加害者たちを罰しても同じような気がしますね、わたしの場合は。

どんなことをしても、悲しみも憤りも消えることはない……。そういう絶望の暗闇のなかで、社会全体の償いとして、少年を更生させていきましょうという少年法の精神も、まさに、遺族感情に対する確信犯的な法律ということができるのではないかと思うのですね。

ああ、こんな屁理屈を書いたら、映画ではない、実際の犯罪被害者の方から、お叱りの言葉を受けるかもしれません。すみません、わかったようなこと書いて。最初に謝っておきます。

ただ、この映画見て、ほんじゃぁ、犯人の少年の側の家族はどんな気持ちなんだろう……とか、考えたくなる人もいらっしゃると思うのですね。自分の子どもが犯罪者になってしまった、親の気持ちというか……。そりゃ、誰にも、同情してくれとも、わかってくれとも言えない、絶望的な気持ちでしょう。

そんな、犯罪者の親と被害者の親を描いた、興味深い映画があります。犯人の少年の役を小栗旬がやってるのも見ものです。ま、わたしは津田寛治の代表作になるだろうと思っていますけど。
 → 過去記事:「映画:「イズ・エー [is A.] 」~DVDで




これで、映画の感想になってますか?



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映画:「イズ・エー [is A.] 」~DVDで

2009-10-13-Tue
この映画知りませんでした。

どこかでとりあげられてましたかしらん。2004年モントリオール国際映画祭正式出品作品だそうです。それがどういう意味があるだか、わたしは知りませんけれど。

少年法・少年犯罪が大きな話題になってました。重大事件を起こした犯人が少年法に守られて、わずかな刑期期間で更生したとされ、社会に復帰する……。果たしてそれでいいのだろうか? 被害者やその家族には、なんの救いの時もこない。命を奪われ直接の被害者は、言うまでもなく無念だが、残された家族は、その被害者を忘れずに愛し続けることこそが冥福を祈り、鎮魂につながると信じつつ、逆に、いつまでも、その残虐な死をひきずって生きていかねばならないという矛盾。加害者の少年には更生の道が残されようと、被害者や被害者の家族は、大きすぎる心の傷と、怨念と絶望と復讐心と悲哀と、そうした闇を抱えて生きなければならないこともあるのですね。

何人の被害者が出たのか忘れましたが、20人近くはなくなったと思う、渋谷のレストランの爆弾事件。その犯人少年Aを小栗旬が演じます。更生を信る少年Aの父(内藤剛志)。そのレストランで、ひさびさの家族団欒の時を過ごしていて、事件に巻き込まれ、愛する家族を失った刑事を津田寛治。メインはこの三人のドラマです。三者三様の苦悩と虚無、絶望が描かれます。

救いようのない現実の重み、真面目な大人たちが次々と壊れていくのに、現実からはじき出されたように、加害者の少年は、妙に軽く、薄っぺらで、虚無的です。人間味が全く感じられない、生きている実感が持てない、そうしたふわふわとした人生を、僕たちは(とここでは一人称で書いておきますね)知らず知らずに歩いているように感じますね。それは、デートクラブ嬢うさぎ(水川あさみ)も、少年Aのともだちのカツジも同じなんです。

生きているという実感というか手触りみたいなもの、どうしたらそれを感じることができるのか、たぶん、それは、「愛」によって感じるのが、一番幸福だと思います。自分は誰でもいい、誰かに愛されている、誰かを愛しているという実感ですね。しかし、それが得られないとき、残念ながら「愛」以外のもので、その生きてるという実感というか手触りみたいなものを感じるしかなくなるということでしょう。

時に、それは、復讐心であり、憎悪であり、あるいは性的快楽であり、破壊によって得られる達成感なのかもしれません。痛みやピアシング(→過去記事「蛇にピアス」)などもそうした、生きてる証や生きてる実感を得る手がかりになるのかもしれません。

少年犯罪は、あるいはそうした、未熟さゆえのリアル感の欠如から起きるものだから、厳罰にせず、更生させその後の人生にチャンスを与える……という少年法の精神は、たぶん間違ってないと思うのですが、ほんじゃぁ、被害者や被害者の家族は、ただ、顔の見えない少年Aに一方的にやられたというだけで、その突然の言われない不幸を、どう処理して、どう生きていったらいいのか、何もなかったように、生きられるはずがないのに……。ってなことを考えさせる映画でした。

わたしは、こういう、現代社会のどうしようもない闇を描く作品は、けっこう好きで、わたしにとっては、いい映画です。ただ、一言言えば、臭かろうとなんだろうと、何か希望を与えて終わって欲しいんです。それが、映画だと思います。

それと、津田寛治がとてもよかったので、ご本人はどう思ってるか知りませんが、わたしは津田寛治の代表作だと思います。


※映画の記事が続きますが、まだ、書きたい作品があります。
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