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David the smart ass

心のダイエット!~時には辛口メッセージを~

映画:「ロボジー」~劇場で

2012-02-02-Thu
五十嵐信次郎主演のロボジーを見てきました。

音楽のことはあんまり詳しくないの、この、五十嵐信次郎がミッキー・カーチスだなんて、今、記事を書き始めて、初めて知りました。こういうことは、書いてもなにもおもしろくないのですが、わたしは、五十嵐信次郎もミッキー・カーチスもほとんど、いや、全くと言っていいほど知りませんでした。

ミッキー・カーチスとは、日本のロッカビリー歌手として一世を風靡した男だそうです。
 → Wikipedia:「ミッキー・カーチス
 → Wikipedia:「ロカビリー

ミッキー・カーチスがどんな人生を送ったか、これまたほとんど全く知りません。ロック歌手としてだけでなく、俳優やタレントとしても成功し、映画やドラマなどにも多数出演の実績をもっているのです。ですから、今回の映画も、そうした作品のひとつとして演じたといえばそれまでなんでしょうが、今回の役は、妻に先立たれ、娘は嫁いで家庭を持ち、一人でわびしく暮らす、老人の役です。大きな持病こそないものの、潤いも、生きがいもなく、刺激もない。ひたすら認知症を心配するような、独居老人の役です。ま、さまざまな経緯があるものの、老人は、ロボジーの着ぐるみを着ることになります。ロボットショーに参加するはずのロボットが完成できなかったので、自ら考える力を持つ二足歩行ロボット「ニュー潮風」の偽モノとして……。


→ 公式サイト

映画は、所謂ファミリー向けというか、子どもから老人まで楽しめる、ほのぼのヒューマンコメディという感じです。青春ドラマのようでいて、幾分ターゲット年齢は高そうで、老人問題というか、老人の生きがいみたいなものを感じずにはいられませんでした。それは、映画の題名からしてそうなんですが、往年のロックの寵児が、今は映画でロボットの着ぐるみを被っている……、これが老人問題でなくてなんでありましょうか。この世に老いは平等に訪れると。そして、今更言うまでもないのですが、老いたからといって、鈍感になったわけでもないし、急に悟りを開いたわけでもないのです。寂しさも感じれば、ちやほやもされたい。若い女の子のパンチラには、やはり瞳が輝かせたりなんかしてしまうわけなんですね。なのに、定年は訪れ、年寄り扱いは訪れ、再就職したくても年齢制限が出てくるのもまた現実なんですね。もっとも、このロボットの着ぐるみ、30キロはあるらしく、老人が着るには相当キツいものだったらしいです。しかも、普通のジッパー式の着ぐるみと違って、ネジ止め式で、着け外しに合計1時間もかかるんだそうで、簡単にトイレに行けなかったそうです。これが着られたんですから、まだまだですよね、ミッキー・カーチスは。
 → 五十嵐信次郎「ロボジー」姿披露するも「やっぱり着なきゃ良かった」 : 映画ニュース - 映画.com
 → 吉高由里子に五十嵐信次郎が「ぶち抜けてる。大女優だ」と称賛 - MovieWalker

ヒロインの女子大生は、ものすごくかわいい、吉高由里子です。「蛇にピアス」(→過去記事)では、ものすごいエロエロの今時の娘の役やってるんですけどね、正直、あっちより、こっちの方がいいんですけどね、いや、あっちもいいし、こっちもいいです。別人に見えますけどね。ミッキー・カーチスもべた褒めです。(上記事)

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映画:「蛇にピアス」~DVDで

2009-06-08-Mon
祖母が明治の女なので、と、祖母のせいにするのがいいのかどうかはわからないけれど、たぶん、祖母の強い影響下にあった幼少期に形成されれたであろうわたしのモラルからする、ピアスするとか、タトゥするとか、まして、スプリットタンだとか、理解できないというか、そもそもタブーである。整形手術だとか、プチ整形だとか、いや、男の化粧だって、タブーである。そもそも、「熱があっても学校に行け」と言っていた人なので……。

ただ、それはわたしにとってタブーであるだけで、別に頭っから否定しているわけではないし、スプリットタンも、痛くないならやってみたい気もないわけではない。おもしろ半分に。ただ、刺青もそうなのだけれど、元に戻らなさそうだから、わたしは、自分の気まぐれや、移り気なのかよくわかっているので、そういう決定的なことはできないでいるということもある。そういう臆病な性格を、祖母のいいつけみたいに振舞っているとは、なんと、臆病で卑怯な話だと思わなくもないが。

--と、ま、自分の身を照らし合わせて、省みたくなるような作品でしたね。「蛇にピアス」は。


 → 公式サイト

身体改造やタトゥーなどは、一見ファッション、それも、社会から逸脱しているファッションのように感じられますが、相当の痛みと、後戻りできなさを考えると、そう決断する段階では相当に追い詰められた心理状態にあるのではないかと思います。タトゥーが悪なのではなくて(文化だという国もあるでしょうし)、この日本において、タトゥーをしよう、身体改造をしようという状況に身を置くことが、すでにして、ある種の逸脱であるということを踏まえ、そういう逸脱を経験した者という意味で、世の中からは偏見の目で見られるというような傾向になっているのでありましょう。それを、差別といえば差別なのだと思いますけれど、幸か不幸かそういう道を決断してしまったのは自分自身であるはずなのです。

ここで、派遣切りに合った人も同じというとあるいはお叱りを受けるかもしれませんが、社会構造がいろんな形での弱者にしわ寄せとなって現れているという意味では同じことなのかもしれないと思うわけですね。つまり、この映画の主人公ルイは、すごくスタイルもよくて、すごく綺麗で、それなりに聡明そうなんだけれど、自分で生きている感覚がないというか、実感がないとうか、達成感がないわけなんですね。「どうしてそうなってしまったのか」ということを描くのも意義あることなのですが、ま、この作品は、生きていると実感のない苦しさ、誰をどう愛してどういう生活を築いていっていいかわからない苦しさ、なにをしたら自分が本当に満足でき、周囲の者から認められるのか見つけられない辛さ、そうしたものを、タトゥーとピアスとスプリットタンという、逸脱を使って表しているのだと思います。

ルイの絶望というか、虚無はひじょうによく共感されるわけです。そして、「このまんま、日の当たらない暗い世界でずっと生きていたい(正確に生きていたいと言ったのか、生きていかねばならないと言ったのか忘れたのですが)」という言葉に激しく共感されるのでした。

で、冒頭のような言葉になるわけですね。共感されるのだけれど、それを身体改造とか、ピアッシングとか、タトゥーというような、身体に表すような形でアピールすることは、僕らの世代には許されなかった……のかな、と。

いい映画ですね。

こんなのもあります。わたしの下手な鑑賞文より参考になるかも。
 → Youtube:「前田有一の超映画批評「蛇にピアス」



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