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David the smart ass

心のダイエット!~時には辛口メッセージを~

柔道のルールと方向性の理想と現実~北京五輪

2008-08-16-Sat
北京五輪は、なにかとタイムリーにやってるなと思います。

暑い日本の夏休み、ガソリンが高くて、さらに諸物価が高くて、つまり、暑いやら、高いやらで、ほんならうちで、クーラー当たりながらテレビでも見ましょうかって気にさせてくれます。さらに、なにより時差があんまりなくて、つまり、わりといい時間帯にライブで見られます。「偽装五輪」と英国紙は厳しいですが、確かに「巨人の足跡」や「口パク少女」はどうかと思いますし、開会式前の「鳥の巣」の前に、普通の選手や、市民たちともに、軍服に機銃を下げた兵士がいたのには、ほんとうに興ざめだなと思ったりもしましたけれど、ま、それにしても、ついつい五輪やってると見てしまいますね。

水泳の北島選手や体操の内村選手など、なにかすごい華々しい活躍の人もいましたけれど、ま、そっちはそっちでいろいろ書いてもいいのですが、ま、わたしはちょっと柔道のことが書きたくなりました。

というのも、北京五輪の柔道競技が始まって、うちのブログのある記事に急にアクセスが増えました。これです。
 → 過去記事:「柔道のルール改正に思う、大相撲の「変化」」(08年3月8日付け)

このわたしの記事で、「北京五輪から効果が廃止され、ポイント合戦になっている柔道から、一本重視の柔道に変わる」というようなことが書いてあるのですが、どうやら、実際に柔道を見ているとそうではないことに気づきました。「効果」というのは依然としてあるじゃありませんか? 念のために、北京五輪の柔道ルールにつて解説してるページを検索して調べててみたのですが、効果のポイントはきちんと生きています。
 → Yahoo!スポーツ 北京オリンピック特集 「柔道:ルール」

あらら、日本生まれの「柔道」が、国際的な「JUDO」になって、ついには「ジャケットレスリング」と呼ばれるようなものに変質しようとしている(武道的な観点から見れば「堕落」ということになるかもしれません)ということを阻止しようとした、3月の改正案は、(少なくとも北京五輪では)採用されることがなかったようですね。もし北京五輪から採用されていたら、もっとすばらしい結果になっていたかもしれません。

さて、そのわたしの記事(「柔道のルール改正に思う、大相撲の「変化」」)は、柔道のことが書きたくて書いたのではなくて、相撲のこと、特に、大相撲で横綱朝青龍が稀勢の里(当時小結)を蹴手繰りで破ったときに、「横綱の品格」のようなことを言われ、ことに横審の女性委員からは「蹴手繰り」なんていう名前からして品格がない技を使うなというようなことを言われたことについて、わたしなりに批判したものです。

スポーツにおけるルールとは平等なもので、どういう立場の人は使っていけない、上位のものが使ったら卑怯だ、品格がないというようなことはない。勝つためだったら(ルールで許されているの範囲なら)、(その手法、作戦の好き嫌いはともかく)何をしても許されると思っています。審判が認めているものを、横審という、特別な立場にある人が「品格のない技」などというのは、それこそ立場をわきまえない、品格のない発言だとわたしは思ったので、柔道のルール改正を引き合いに出して、もし「蹴手繰り」がそんなに下品な技だというのなら、この柔道のルール改正のように、大相撲もきちんとルール改正して、「蹴手繰りは(番付上位者が下位者に対して)使ってはならない」と規制をすべきだ(わたしは仮定が違うので、このルール改正には不同意ですけれど)というのが、わたしの意見でした。

で、今回の日本勢の敗北について、特に、鈴木選手や泉選手の試合を見てて思ったのですが、ひょっとして無理して横綱相撲をとろうとしてませんでしたか? ということです。わたしは、試合を見ただけで選手の考えてることや理想がわかるわけではないのですが、なんというか、日本選手が妙に棒立ちで、腰高で、相手の選手に下に低くもぐられてリフトされたり、転がされたりしてるように思われてならなかったのですね。

自分が理想とする一本をとる柔道を目指すのはすばらしいことですが、同じ理想の下での勝負を相手に要求するのはちょっと違うと思います。いや、厳密に言えば、同じ理想を相手に求めるのは自由なんですが、それに応えるか応えないかは相手の自由というべきでしょう。以前プロ野球の清原選手が、オールスターだか日本シリーズだかで、相手ピッチャーに対して、自分はフルスイングする(あてにいくとういような卑怯なことはしない)から、お前もド真ん中直球で勝負して来いとうような要求をして、結局変化球だかを投げて三振をとりに来た相手投手を、卑怯者呼ばわりしたことがありました。

わたしに言わせれば、清原がそれだけの駆け引きをして、それだけの勝負を望むのはいいとして、それを受けるか受けないかは、相手の自由であり、相手はルール内で最善と思われるプレイをしたならそれでよく、敬遠だろうが、変化球だろうが、勝つために自分で選べばそれでよく、それに対して「卑怯者」という権利は清原にはないと思いました。それはむしろ清原が卑怯だとさえ思います。

今回の柔道の男子の不調を見て、柔道における理想と現実の中で、ひょっとしたら日本の選手たちは、この清原選手のような立場に追い込まれていたのではないかと思うのですね。「一本をとる柔道」の理想を必要以上に意識させられ、チームの方針として強要される(と言わないまでも、その理想の下で結果を残さねばならないというプレッシャーを与えられた)ところはなかったのだろうかと、ふっと思ったのですね。

もちろん、それができる選手はそうしたらいいのです。しかし、相手選手がルールの特性を理解して、ポイントをとる柔道をしてきているのに対して、日本は、横綱なみのハンディを(横綱でない人にまで)押し付けるところがなかったのだろうかと思ったのですね(別に、横綱や清原がやれるんなら、それはいいんですよ。そこまで否定してるのではありません)。

そして、多くは結果を残せなかった。それは、柔道に負けたというよりは、ルールに負けたといえなくもないのですが、それだけに負けた選手の気持ちは気の毒にほどがあります。理想を追うのはいいのですが、環境を整えてからにすべきであって、ルールがポイント重視のままであるのならば、それはそれでそういう戦い方も戦術の一つにしなければなかなか勝てないのではないかと思います。理想がどうということではなくて、ルールとはそういうもので、力の差が小さければ小さいほど、そのルールの方向性は大きな影響を及ぼしたろうと思うのですね。

逆に言えば、そこまで「一本の柔道」を理想に掲げる人は、「横綱柔道」で一本を狙って正面から受けにいって、結果「柔道」とは言えない「タックルでも、足取りでも転がせば勝ち」というスタイルの人に負けてしまった選手に対して、お前は理想を追求して散ったのだからすばらしいよと褒めるべきだと思うのですね。そもそもルールを敵に回す不利な戦いに臨んだのわけですから、金が減った、惨敗だなどと言ってはならんのです。たとえ負けても散り際が見事なら敗者でも褒める……、武道、武士道とはそういうものです。そこだけ急に、金が何個、メダルが何個などと数え出すくらいなら、それは、それ最初から、ポイントを取る柔道を選べばいいと思うのですね。効果がいくつ、有効がいくつ、一本がいくつ、メダルが何個……って。

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柔道のルール改正に思う、大相撲の「変化」

2008-03-08-Sat
柔道のルールに関するニュースが続きました。

まず、

国際柔道連盟(IJF)が7日の理事会で、襟や袖口の厚さや長さが基準を外れた違反柔道着を一掃することを目的に、基準に合格した柔道着にIJF公認マークを与え、五輪や世界選手権など主要大会で着用を義務づけることを決めた。
違反柔道着を一掃、国際柔道連盟が公認制導入へ(読売新聞) - goo ニュース

記事によると、来年の世界選手権(オランダ)から実施される予定で、「最近は、相手がつかみにくくなるように襟や袖に糸を縫い込んで分厚くしたり、袖を短くするなど規格外の柔道着を身につける外国選手が多い。組んで技をかける日本人選手対策とも言われ、欧州遠征でも「硬くて持てない」との声が日本選手から出ていた」のだそうです。一種のルール改正で、用具(柔道着)の規格をきちんと定めるということなのですね。

もう一つは、ちょっと前ですが、「効果」を廃止するというニュースでした。

国際柔道連盟(IJF)は6日、アブダビで理事会を開き、「効果」のポイントを廃止することを決めた。今夏の北京五輪後に適用され、「一本」「技あり」「有効」の3段階となる。
 IJFのルールでは、投げ技の場合、相手を制しながら「速さ」と「強さ」をもって片方の肩や尻などを畳につくように投げたときを「効果」と定めているが、分かりづらく、柔道の魅力をなくすとして見直しを求める声が多かった。
  → iza:「国際柔連、「効果」のポイント廃止 北京五輪後から

この背景には、柔道の醍醐味である一本をとろうとするのではなくて、所謂「ポイント狙い」によって勝ちに行こうとする試合運びが増えてきたということがあげられます。

 IJFルールは投げ技の場合「強さと速さをもって背中が大きく畳につくように投げたとき」を「一本」と定義。「一本」の条件のうち一つが欠けた場合を「技あり」、二つが欠けた場合を「有効」、片方の肩や尻などを畳につくように投げたときを「効果」と順に定めているが、分かりづらく、柔道の魅力をなくすとして、基準の見直しを求める声が多かった。
  → iza:「「効果」廃止、北京五輪で採用か 国際柔道連盟

同じ記事によると、このほかのルール改正も検討していて「組み手で組むことなく、いきなり下半身を攻撃することに反則を与える」というルールや延長戦に関する改正案が出ているようなんですね。

これが、スポーツというものだと思います。柔道はスポーツでない武道なんだという人もいらっしゃるでしょうが、みんなで共通して守るべきルールはこうして見直しながら、そして平等に課するものだと思うのですね。「ポイント狙い」が勝利に近いのであれば、プレイヤーはポイント狙いに走るのは当然で、まして、正面からいったのではとうてい一本勝ちが望めないような相手には、ルールの中で自分が勝つにはどうしたらいいかって考えるのは当たり前のことだと思うのですね。反則はいけませんが、反則すれすれってのは反則じゃない。

で、ちょっとこだわってるので、横綱朝青龍が蹴手繰りをしたときに、横綱が変化するなとか、そもそも「蹴手繰り」って言葉には品格がないというような意見です。横綱に期待するというのはわかりますし、それぞれが理想の横綱からして、目の前の一人横綱がどうなのかって思いも理解しないではないです。しかし、およそ土俵上の勝負に関して、ルールで許されている技である蹴手繰りをして、「品格」がない(そもそも技の名称自体に品格がない)などというのは、言いがかり以外のなにものでもないと思うのですね。

もし、「変化」や「蹴手繰り」が、相撲精神や武士道精神からみて許されない、品格のない行為であるのならば、柔道が指摘するような「魅力をなくす」というのであるならば、このようにルールで禁じればいいのですね。柔道では以前から「掛け逃げ」という反則があって、技を掛けないでいると消極的という反則をとられるので、攻めている素振りをして、実は決めるつもりのない技を掛ける、所謂偽装行為を反則としています。また、今回のルールの見直しで、

組み手で組むことなく、いきなり下半身を攻撃することに反則を与える
  → iza:「「効果」廃止、北京五輪で採用か 国際柔道連盟

ということも検討されています。

もし、「蹴手繰り」が横綱にふさわしくない、相撲道にもとる品格のない技であるなら、改名を考えるなり、その技自体を反則に指定するべきだと思うのですね(ファンが言うならともかく、横審メンバーが発言していたはずですからね)。そういうことで相撲のレベルというのがあがっていくのではないかと思うのですけれど。

時津風部屋の力士が親方の指示による暴行で死亡した痛ましい事件があり、部屋改革が叫ばれているなか、今年はドーピング検査も実施していくようです。

ドーピングNO!違反者は賜杯はく奪も (08/02/14)
 09年からのドーピング検査導入を目指す日本相撲協会は13日、東京・両国国技館で総勢900人の親方、力士を対象にした大がかりな説明会をスタートさせた。秋場所から試験的に導入し、来年から本格的な検査を実施する予定だが、違反者には優勝はく奪や出場停止などの厳罰が下されることになりそうだ

いいことだと思います。力士の安全のためには必要なことだと。

こういう改革の目で、いろいろと見直してみてはどうかと思うのですね。

ま、明日はいよいよ春場所初日ですけど。

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お正月小景~テレビで駅伝を見る

2007-01-06-Sat
ことしの正月はなんか落ち着いていた。

もう毎年のことであるが、初詣にはいかない、年賀状はかかない、書き初めはしない、お屠蘇は飲まない。初日の出は見に行かない。正月などどこがめでたいものかと、やや偏屈になっている。

正月の風習で受け入れていること、鏡もちを飾る、しめ縄をかざる、お雑煮を食べる、お年玉をあげる、おせちを食らう。実家に帰って父母に会う、こたつで蜜柑を食べてごろごろして、テレビをたれ流すくらいのことだろう(これ風習?)。

「一年の計は元旦にあり」などと言われても、一年の計などというものを元旦には立てない。いつもなら、そう、ちょうど今ごろぼちぼちと立て始めるのだ。今年はどうしようかなって。

わたしがこういう自堕落でくだらない正月を送るようになったのも理由がないわけではない。なにか積極的に意図してなったわけではなくて、なりゆきでもあった。商業主義的というか、クリスマスからお正月にかけての、幸せの押し売り、おめでとうの押しつけにはうんざりだということはあるだろう。おそらくこれが、この時期の寂しい青少年を犯罪に駆り立てる一因だとさえ思っている。

で、なんだろう、もう少し自分自身が心から素直にクリスマスを楽しめ、おめでたいという気分になれないものかと、ま、そんなところでわだかまっていたのかなと思う。「ハッピ~」ってほんとに言えるのはいつだろうって。ま、ちょっと変な例でいうと、お葬式で、儀式などのだんどりがどんどん進んでしまって、自分が故人の思いを充分に処理しきれていないって感じに似ているかもしれない。そういう一種の乗り遅れ感が毎年この季節に訪れるわけだ(ところが、わたしは今年はそれが比較的に軽かった。ああ、なにかがちょっとだけ満たされたんだなと、ま、勝手に喜んでいる)。

居間のテレビで駅伝をたれ流しておいて、わたしはDSをやっていた。わたしは走るのが遅い。それもとてつもなく遅いために、リレーなどという種目はぞっとする。もう致命的である。もちろん、わたし一人ではなく、ほかにも足の遅い子どもはいたので均等に配してくれればそれなりに勝負にはなるのだが、それにしても図体はいたずらにでかいのでその点は少しかっこわるいのだ。そして、やはり、絶望的に遅いことといったらなく、同じチームの速い子がフォローしてくれるなんてふうに前向きに考えることができない相談なのだ。リレーでもそうなのに、駅伝などという恐ろしい種目はない。みんなで襷(たすき)に思いを込めるだとか、お守りなんかを縫いつけてあったりして、それを必死につなぐというのである。あ~いやだ。堪えられないそんなの。

そして、沿道から地域の人たちが声援を送るのだ。さらにその走りをテレビカメラがアップで写して、アナが克明に放送してくれたりするわけだ。「8区の出人選手ブレーキ、大ブレーキです。いつも不安だ不安だ、走るのが嫌だって言ってましたが、その不安が現実のものになりました。もう半ベソです。みんなの思いを込めた襷をつなげることができるんでしょうか」なんて言葉、たまらないなぁ。恐いなぁ。ああ、嫌だなぁ。

そんなわたしだから、オリンピックだの世界陸上だの、水泳もそうだけど特に好きじゃない(笑)。見たいと思わない。あんなおそろしいもの。ただ、いつのころからか、箱根駅伝は毎年のようにたれ流して見ている。そんな嫌なものであっても、他局のおめでたムードの押しつけ番組よりは、まだ心が安らぐからかもしれない。

だから、今年もそうしながら、掛け軸裏のダンジョンに潜っていたのだ。
不思議のダンジョン 風来のシレンDS
セガ (2006/12/14)
売り上げランキング: 85
おすすめ度の平均: 4.0
3 評価が二分する作品。
4 理不尽なもんはあるけれど
2 初プレイの人は注意した方がいいかも‥。


で、シレンでなくて、箱根駅伝の話。

別に記録がどうとか、選手がどうとか詳しいわけではないのだけれど、また、わたしの出身大学はそもそも地方で、出場資格ははなからないのだけれど、そんなわたしでも、箱根駅伝の放送を見るのは嫌ってことはない。むしろ、いいなぁと思う。他局の番組がつまらんからこれをつけてるようなことを書いたけど、たぶん本当はそうじゃない。おもしろいんだと思う。その証拠に、やむなくクルマで出かけるとしても、カーラジオつけて経過を聞きたいくらいだから。

走って次の人につないで、そいつがまた走る。実に単純。ただ走るだけ。しかし、それでも、全員の体調管理だの、作戦だの、駆け引きだのたくさんあって、さぞたいへんなことだろうなと思う。選手やチームサイドだけでなく、運営サイドもさぞ大変だと思う。地域の人たちも。そして放送局も、ドラマがあるかのように工夫している(演出といえば演出もあるのでしょうけれど)。そういう一生懸命さが番組から伝わるのも心地よいのだろう。--いささか過剰ぎみなアナウンサーの言葉も、ま、けっこう楽しめる。自分が選手で、そんなこと言われたらウザイと思うだろうけど。ウルセー、ほんならオメーが走ってみろ!って(笑)

ま、わたしは駅伝を楽しんでいるってよりは、駅伝の番組を楽しんでいる、駅伝の放送を楽しんでいるってことなのかもしれない。

で、駅伝の話。今年の箱根駅伝(第83回)では繰り上げスタートが、最後の中継所までなかった。繰り上げスタートとは、大会の円滑な運営(主として交通規制という周囲への影響)のため、前のランナーが中継所に到着するまえに、次のランナーをスタートさせてしまうというシステムである。もちろん、計時はちゃんとして正式な記録として扱われる。特別配慮だからといって失格というわけではない。ここ過去2年はたまたまなかったけれど、以前は別に珍しくなかったと思う。

今大会ではどの中継所も繰り上げスタートはなしできたが、9区から10区のランナーへとつなぐ鶴見中継所で、惜しくもそれは発生した。「トップ通過後20分」という基準で、神奈川大学と学連選抜(単独で出場権を与えられなかった大学からの選手で作る合同チーム)とが繰り上げスタートとなったのだ。

スポーツとは非情なもので、敗者は時にひどくかわいそうなものである。甲子園の高校野球を見ていて、最後の晴れ舞台であんな痛恨の、逆転サヨナラエラーをしてしまったら立ち直れないだろうと思うことがある。この子は二度と野球をやりたくなくなるんじゃないだろうかと思ったりしてしまう。--もう、そんなふうに気持ちで負けてる時点で、自分はスポーツマン失格なんだろうけれど。

さて、駅伝の話。鶴見中継所。神奈川大学の9区のランナーは必死で走って目の前に(数十メートルというと誇張しすぎ?)中継所が見えた。10区のランナーが手を振っているのが見える。10区のランナーは腕時計を気にしながら、9区のランナーに声をかける。早く、早く。二人の気持ちは同じだったのだろう。お互いに姿が見えていた。そして、時間が来た。お互いの姿が見える中、9区のランナーを残して10区の選手はスタートを切った。

そういうルールなんだ。どの選手だっておそらく勝利を夢見、記録めざして練習してきた。だから、誰も責められない。責める人がいるはずはない。ルールなのだから。もちろん、わたしだってなんら10区のランナーを責めるつもりはない。彼が、必死で走る9区の選手を置きざりにしてスタートしたなどといって、ことさらに責めたいのではないのだ。それは、誰がどう考えても当然だし、それがスポーツというもので、おそらくわたしがその立場でもそうしただろうと思う。

ただ、ぼうっと見ていて思ったのは、彼は待つことはできないのか? という疑問だった。実況アナウンサーは「みんなの思いを込めた襷をつなげることができませんでした。無念でしょう。残念でしょう」みたいなことを叫んでいるし、実際、9区のランナーはゴールしたあとで、泣きながら「ごめん、ごめん」と謝っている(念のために書くが前のランナーの不調が積算されてここで繰り上げスタートになってしまったわけで、9区のランナーが特に悪かったということはない)。そんなら彼を待つことは許されないの?という素朴な疑問である。

球技だと「遅延行為」というのがある。主に勝ってるチームが、故意にプレイを遅らせることで時間を稼ぎ、結果相手チームの反撃できる時間を少なくしようという作戦である。ただ、多くのスポーツではこれをルールで認めていない。また、逆に、野球では「わざと負けるためにアウトになる」というのもルールでは認められていない。
 (→ 関連記事:「故意の三振はアウトなのか?~秋田高野連」

で、そういうルールとか作戦とか、変則プレイとか考えていると、ま、正月を楽しめないようなへそ曲がりは、駅伝を見てもへそ曲がりでしかないという証明なのだろうけれど、アナウンサーの実況を聞いていているうちに、「そんなに襷が大事なら待ってたらいけないの?」なんて変なことを考えてしまったというわけだ。

もちろん、ルールどおりにスタートしたものとして計時はされるのだ。自分の記録が悪くなるし、チームの成績にも響く。襷を待つなんて、そんなあまちょろいものではないのだろう。今までの努力を無にする、競技者としては恥ずべき行為だと思った。ただわたしはいつだどりつくかわからない人を待つというようなことではなくて(競技的にはそれでも大きな数字なのだろうけれど)、ただ目の前に見える選手を待つだけの話なのだ。これが、3メートルでも、1メートルでも待ってはいけないの? ま、そんな禅問答みたいな話なのだ(今回の神奈川大学のケースは20秒くらいの差だったという)。

たとえば、10区の選手が10メートルくらい走って、やっぱり待ってるわって戻ってきて、ゴールした9区の選手から襷を受け取って走り出したりしたら、どんな展開になるだろうって……、そこからちょっと夢想して、痛感した。

記録や勝負のことよりも、そういうことを考えるほうが楽しいなんて、とことんわたしはスポーツに向いていないんだということを。



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故意の三振はアウトなのか?~秋田高野連

2006-07-24-Mon
スポーツはどれでも一緒ではないことは今さら言うまでもない。そして、経験や練習その他によって、上手い下手があるのも当然だが、それがときどき妙なことになることがある。いつだったか、高校でソフトボール部の顧問をやっている男から、こんな話を聞いたのを思い出した。

「出人さん。ソフトは下手くそだとほんとうに悲劇なんですよ。試合が終わらないんです。たとえばバレーだと21点なら21点取られれば試合が終わるでしょう。バスケットやサッカーなどは時間が来れば終わってくれる。ところがソフトや野球は下手だと終わらないんです。自分たちが3つアウトをとらないと終わらないんです。フライを打ち上げてもそれが捕れないとだめなんです。もう、大量の点差がついて、相手チームに勝ちが決まっても、こっちが3つアウトをとらないと次の回へ進まない。だからときどき、相手も、露骨にわざと三振とかできないから、バント練習をしてくるんです。セーフティバントをやる。そうすると普通なら2本やれば一つくらいアウトになる。ところが下手なチームになると、そうしてアウトをくれようとしているのにそれがアウトにならない。捕れなかったり、送球ミスとかでセーフになってしまう……」

この話を思い出したのには、秋田県の高校野球で、故意に三振をし、県の高野連から注意を受けたというニュースに触れたからだ。
スポーツは一生懸命やっているので、ときどき妙なことが起こる。

試合成立狙い「故意の三振」・高校野球秋田大会
 秋田市のこまちスタジアムで22日あった第88回全国高校野球選手権秋田大会準決勝の本荘―秋田戦で、本荘に故意に三振するなどフェアプレーに反する行為があったとして、県高野連は本荘に対し23日の決勝開始までに始末書を求めることにした。
 全文を読む……


まず、野球では降雨コールドゲームというのがある。雨天の場合、高校野球なら7回が終了していれば試合成立とみなし、その時点での得点の多いチームが勝者になる。逆に7回終了以前であれば、降雨ノーゲームとなり、どれだけ点差が開いていようが、再試合(その場合スコアは0:0から)となるのだ。

7回表雨が降り続く中、12―1でリードしていた本荘高の監督は1死二塁の攻撃で、打者を呼んで空振りを指示した。打者は三振し、走者も無気力走塁でわざとアウトになったとしている。結果7回裏で本荘高が12―1のコールド勝ちとなった(その後本荘高は決勝に勝ち秋田代表になった)。

そして、県高野連によって「雨天で試合が中止されることを恐れた故意の行為」「最後まで全力を尽くすべき理念に反する」「相手チームに失礼」というような理由で、始末書の提出ということになった。

この現場にいたわけではないので実際の状況がわからないが、スポーツとは勝つために「敬遠のフォアボール(故意に四球を与えること)」をしたり、「送りバント(ランナーを進塁させるために自らはフルスイングせずに当てにいく)」をしたり、「ファールフライを落球(タッチアップ可能なランナーがいるときに、外野ファールフライを捕球するとタッチアップされるので捕ろうと思えば捕れても故意に捕りにいかない)」したりするものだと思う。また、上に書いたように、どうしてもアウトがとれないチームに対して、バントをするというようなケース(ソフトボールだが)も実際にあるのだ。

本荘高の監督が勝つために故意に三振を命じてもいいのではないかとわたしは思う。もちろん負けるために故意に三振を命じたら、それはいけない。でも、本荘高校がめざしたのは試合成立なのだ。試合を成立させなければ勝利はない。

逆に聞こう。相手のチーム(秋田高)が負けないために降雨による試合不成立を狙って徹底的に試合を引き延ばしたら、同じように始末書なのか? わたしにはもちろんそれも悪いこととは思われない。スポーツとはそういうものだ。天候をも味方につけねばならないことが時にはあるものなのだ。

ただ、高校野球はあくまで教育の一環と言うことを標榜している。今回の「故意の三振」を高校生である選手達がどんな気持ちでやったかによって、やられたか側の印象もかなり変わるだろう。あるいは、本荘高の選手はそれまでの野球経験で「故意の三振」など指示されたことがないから、ひょっとしてニヤついて打席に入ってしまったかもしれない。他の選手たちも、冷やかし半分の歓声をあげて、結果相手チームの心まで踏みにじってしまったかもしれない。もしそうだとしたら(わたしは見ていないし、そのあたりは報道にない)、マナー上いいとは思われないが、野球って、けっこうエグく野次るスポーツだったと思うけど、そこも変わったんだろうか。「ピッチャーノーコンだよ~」とか、「バッターは打てないよ~」とか平気で言ってたような気もするけど、時代が変わったのかな。

記事によると、試合後のインタビューに、本荘高の監督は「選手に、空振りしてこいと指示した。マナー的にはどうかと思ったが、早く終わらせて試合を成立させたかった」と、また負けた秋田高の監督は「最後まで一生懸命やろうとしていたのに、負けた以上の屈辱だ。悔しい」と話したそうだ。

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