David the smart ass心のダイエット!〜時には辛口メッセージを〜 |
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- 11/07 映画:「コドモのコドモ」〜DVDで - シアター
- 11/06 映画:「クライマーズ・ハイ」〜DVDで - シアター
- 11/03 映画:「沈まぬ太陽」〜劇場で - シアター
- 10/30 第61回正倉院展で琵琶を見る〜奈良国立博物館 - シアター
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映画:「コドモのコドモ」〜DVDで
2009-11-07-Sat
映画「コドモのコドモ」を見ました。やっと。
映画化が決まったと当時、うちの記事に延々とネガティブなコメントが並んだことを覚えています。映画全体の感想ですが、バイアスなしで見たつもりですが、おもしろくない作品とは言えませんね。タイミング的に「沈まぬ太陽」とか、その前には「さまよう刃」とかを劇場で見た後でしたので、かったるく感じのかもしれません。また、当時から問題になっていた、「小五の妊娠」という点も、リアリティの面でやっぱりどうかと思いました。ただ、当時うちのブログで再三語られた「児童ボルノだ」という指摘は、的外れだと思います。
ただ、子どもたちの性への興味というのは、昔も今も、それは自分を振り返ってもそうですが、大人が想像するより早くから始まっていると思います。これは間違いないかと思います。
それに対して、大人がどこまで、どのように教えていくか、あるいは教えないでいくか、あるいは導いていくか、あるいは抑制していくかということは、非常に難しい問題です。それは、個人の考え方や、環境によって大きく違う問題でもあるからです。同時にこのままでいいのだろうか? という不安は誰しも持っています。「性」の問題は、誰にでも共通する重要な問題であり、また、リスクでもあるからです。
だから、きちんと教える必要を感じながらも、どういう方法でというところで、なかなかコンセンサスが得られない状態だったった思うのですが、1990年代半ばということになるでしょうけれど、AIDSが問題になったときに、避妊と言うようりも、AIDS予防という観点から、コンドームについてを教えなければならなくなったと思います。同性愛やオーラルセックス、アナルセックスというものについても、高校生の年代では、実際避けて通れないというのが現実だと思います。理想はどうあれ、それが現実でしょう。
では、中学生ではどうなのか? 小学生では早すぎるのか? そういう時期的な問題も出てきます。
主人公春菜(甘利はるな)の姉の高校生(谷村美月)の同級生は中絶をします。春菜はその話を、最初は赤ちゃんを産む話だと誤解して貯金箱からお金を取り出し、その同級生に渡したりします。子どもは純粋に命の大切さを感じ、考えています。それは、中絶する女子高生も同じだと思います。原作のマンガには無責任なその彼氏も出てきていましたが、外から見ている以上に、当事者たちは傷ついていると思います。
そういう流れから、「正しい性教育でそれは防げる」みたいな主張は生まれ、そして、それを実践する人たちも現れます。所謂「過激な性教育」とか、「異常な性教育」というような言い方で、一時期国会でも問題になりました。春菜の担任の八木先生も、そういう意味では「進歩的な性教育」をめざし、実践しようとしたわけです。映画の中では保護者や他の同僚から支持を得られず、むしろ学級がまとまらない一因にさえなっていってしまいます。
そういうこととはむしろ無関係に、というか、その授業以前に「くっつけっこ」は行われ、その授業で自分が妊娠してしまっていることに春菜は気づくわけですが、それ以後は言わば、大人に知られたら中絶させられるから、子どもたちだけで赤ちゃんを産みたいってな展開になっていきます。学校や大人がどんなにやろうとしてもうまくいかなかった、子どもたちの団結とか、子どもたちの生きる力みたいなものが、実際の同級生が赤ちゃんを産むという大事件で実現していくわけです。
ま、そういう映画ですけど、もしこれが、そういう教育的な映画というか、学校を舞台にした映画という視点であれば、「ブタのいた教室」に及びません。奇しくも、そっちにも甘利はるなは出ていたわけですが、何倍もまともで、何倍も感動的でした。
それに対して、なんというか、社会派が一点ファンタジーになっちゃったって感じです、問題作のつもりが、いろいろな声を聞きそれに配慮した結果なのかもしれませんが、問題作にしこそなったという印象さえあります……。原作も、知らない間に終わらされたような印象を持っていましたけれど。
というわけで、話題先行のわりに、ものたらない作品でした。
映画化が決まったと当時、うちの記事に延々とネガティブなコメントが並んだことを覚えています。映画全体の感想ですが、バイアスなしで見たつもりですが、おもしろくない作品とは言えませんね。タイミング的に「沈まぬ太陽」とか、その前には「さまよう刃」とかを劇場で見た後でしたので、かったるく感じのかもしれません。また、当時から問題になっていた、「小五の妊娠」という点も、リアリティの面でやっぱりどうかと思いました。ただ、当時うちのブログで再三語られた「児童ボルノだ」という指摘は、的外れだと思います。
ただ、子どもたちの性への興味というのは、昔も今も、それは自分を振り返ってもそうですが、大人が想像するより早くから始まっていると思います。これは間違いないかと思います。
それに対して、大人がどこまで、どのように教えていくか、あるいは教えないでいくか、あるいは導いていくか、あるいは抑制していくかということは、非常に難しい問題です。それは、個人の考え方や、環境によって大きく違う問題でもあるからです。同時にこのままでいいのだろうか? という不安は誰しも持っています。「性」の問題は、誰にでも共通する重要な問題であり、また、リスクでもあるからです。
だから、きちんと教える必要を感じながらも、どういう方法でというところで、なかなかコンセンサスが得られない状態だったった思うのですが、1990年代半ばということになるでしょうけれど、AIDSが問題になったときに、避妊と言うようりも、AIDS予防という観点から、コンドームについてを教えなければならなくなったと思います。同性愛やオーラルセックス、アナルセックスというものについても、高校生の年代では、実際避けて通れないというのが現実だと思います。理想はどうあれ、それが現実でしょう。
では、中学生ではどうなのか? 小学生では早すぎるのか? そういう時期的な問題も出てきます。
主人公春菜(甘利はるな)の姉の高校生(谷村美月)の同級生は中絶をします。春菜はその話を、最初は赤ちゃんを産む話だと誤解して貯金箱からお金を取り出し、その同級生に渡したりします。子どもは純粋に命の大切さを感じ、考えています。それは、中絶する女子高生も同じだと思います。原作のマンガには無責任なその彼氏も出てきていましたが、外から見ている以上に、当事者たちは傷ついていると思います。
そういう流れから、「正しい性教育でそれは防げる」みたいな主張は生まれ、そして、それを実践する人たちも現れます。所謂「過激な性教育」とか、「異常な性教育」というような言い方で、一時期国会でも問題になりました。春菜の担任の八木先生も、そういう意味では「進歩的な性教育」をめざし、実践しようとしたわけです。映画の中では保護者や他の同僚から支持を得られず、むしろ学級がまとまらない一因にさえなっていってしまいます。
そういうこととはむしろ無関係に、というか、その授業以前に「くっつけっこ」は行われ、その授業で自分が妊娠してしまっていることに春菜は気づくわけですが、それ以後は言わば、大人に知られたら中絶させられるから、子どもたちだけで赤ちゃんを産みたいってな展開になっていきます。学校や大人がどんなにやろうとしてもうまくいかなかった、子どもたちの団結とか、子どもたちの生きる力みたいなものが、実際の同級生が赤ちゃんを産むという大事件で実現していくわけです。
ま、そういう映画ですけど、もしこれが、そういう教育的な映画というか、学校を舞台にした映画という視点であれば、「ブタのいた教室」に及びません。奇しくも、そっちにも甘利はるなは出ていたわけですが、何倍もまともで、何倍も感動的でした。
それに対して、なんというか、社会派が一点ファンタジーになっちゃったって感じです、問題作のつもりが、いろいろな声を聞きそれに配慮した結果なのかもしれませんが、問題作にしこそなったという印象さえあります……。原作も、知らない間に終わらされたような印象を持っていましたけれど。
というわけで、話題先行のわりに、ものたらない作品でした。
映画:「クライマーズ・ハイ」〜DVDで
2009-11-06-Fri
「沈まぬ太陽」を見て、「クライマーズ・ハイ」見ました。
「沈まぬ太陽」は日航123便の事件をモチーフにした、当事者、まさに航空会社が舞台ですが、「クライマーズ・ハイ」は新聞社です。北関東新聞。マスコミではありますが、全国紙でなくて、群馬県を中心とした地方紙です。日航機が群馬県の御巣鷹山に墜落し、地元紙には、ひょっとしたら手に余るかもしれない未曽有の大事故を扱うことになるわけです。主人公悠木(堤真一)は、日航墜落事故の全権デスクとなります。
中央紙と地方紙とはきっと普段はそれなりの住み分けをしているのでしょうけれど、地元の大事件発生となると話は違います。殊に520名の乗ったジャンボ機が墜落するという大惨事を前に、地方紙はどう関わるかという困難なテーマが与えられます。地方紙なりの特色を出せばいいということなんでしょうけれど、県内墜落したとは言え険しい山中の事故であり地の利があるというほどでもありません。乗客・乗員にも地元の人間がほとんどなく地元紙として報道する価値がどうこまであるかという根本的な疑問です。それは新聞編集の本質というか、地方紙の存在意義の問題でもあります。そして、いざ集中取材となると中央紙の組織力というか、総合力に遅れをとるわけで、意地と言うか記者魂で勝負するみたいなことになってくるわけですね。ですから、日航123便の事故を扱ってはいますが、メインは新聞編集者悠木という男のドラマということになります。
「沈まぬ太陽」も123便の事故を厚いはしましたが、航空会社という巨大な組織に生きる人間ドラマでありました。今回は地方新聞社で組織としては幾分小さいですが、小さいなりの苦労というのがやっぱりあって(よさもあると思いますけどね)、ここまでひどくはないが、サラリーマンやるということは、たとえ傍目には順調にいっているようでも、多かれ少なかれこういう状況だということはあると思いました。
御巣鷹山事故つながりで見たのですが、事故の前後にほんとうに多くの人が関わっていたわけで、その誰にもドラマはあると思います。そういえば少し話は変わりますが、「沈まぬ太陽」の感想で、「被害者や遺族を冒涜している」というのを読んだことがあります。わたしはそんなふうには思わず、むしろ、航空会社の体質に原因の一つを求めるという意味でも、冒涜ではなくて、むしろ被害者よりの視点ではないかと思ったのですが、どうもそうではなかったようです。その方は渡辺謙がカッコよく描かれていて、それが航空会社側の人間であるということが気に入らないという意見のようでした。その根底には人の不幸をネタにして儲けやがってという気持ちもあるのかもしれません。
「クライマーズ・ハイ」はその方にはどう移っていたのでしょうか。事故の発生には直接は関係ありません。ただ、地方紙としてあるいはその記者として、この大事故にどう関わるかという視点の映画で、被害者への鎮魂を前面に出しているわけでもないし、事故の再発防止を謳っているわけでもありません。むしろ、マスコミなんて仕事は、ちょっと偏見っぽく書けば、他人様の不幸や悲劇を根掘り葉掘り調べ、痛みを聞き出してセンセーショナルに報道するみたいなところもありますしね。
そういう生臭い話なんですけど、「クライマーズ・ハイ」(登山家の快楽)という視点を持ってきて、悠木が登山家であり、新聞記事を作り上げるという仕事を、登山のチームになぞらえているところが上手いし、それを職場の人々の支え合いだけでなく、親子に結び付けているのには泣かせます。
あのラストシーンで涙が出ました。焼きが回ったかな……。
「沈まぬ太陽」は日航123便の事件をモチーフにした、当事者、まさに航空会社が舞台ですが、「クライマーズ・ハイ」は新聞社です。北関東新聞。マスコミではありますが、全国紙でなくて、群馬県を中心とした地方紙です。日航機が群馬県の御巣鷹山に墜落し、地元紙には、ひょっとしたら手に余るかもしれない未曽有の大事故を扱うことになるわけです。主人公悠木(堤真一)は、日航墜落事故の全権デスクとなります。
中央紙と地方紙とはきっと普段はそれなりの住み分けをしているのでしょうけれど、地元の大事件発生となると話は違います。殊に520名の乗ったジャンボ機が墜落するという大惨事を前に、地方紙はどう関わるかという困難なテーマが与えられます。地方紙なりの特色を出せばいいということなんでしょうけれど、県内墜落したとは言え険しい山中の事故であり地の利があるというほどでもありません。乗客・乗員にも地元の人間がほとんどなく地元紙として報道する価値がどうこまであるかという根本的な疑問です。それは新聞編集の本質というか、地方紙の存在意義の問題でもあります。そして、いざ集中取材となると中央紙の組織力というか、総合力に遅れをとるわけで、意地と言うか記者魂で勝負するみたいなことになってくるわけですね。ですから、日航123便の事故を扱ってはいますが、メインは新聞編集者悠木という男のドラマということになります。
「沈まぬ太陽」も123便の事故を厚いはしましたが、航空会社という巨大な組織に生きる人間ドラマでありました。今回は地方新聞社で組織としては幾分小さいですが、小さいなりの苦労というのがやっぱりあって(よさもあると思いますけどね)、ここまでひどくはないが、サラリーマンやるということは、たとえ傍目には順調にいっているようでも、多かれ少なかれこういう状況だということはあると思いました。
御巣鷹山事故つながりで見たのですが、事故の前後にほんとうに多くの人が関わっていたわけで、その誰にもドラマはあると思います。そういえば少し話は変わりますが、「沈まぬ太陽」の感想で、「被害者や遺族を冒涜している」というのを読んだことがあります。わたしはそんなふうには思わず、むしろ、航空会社の体質に原因の一つを求めるという意味でも、冒涜ではなくて、むしろ被害者よりの視点ではないかと思ったのですが、どうもそうではなかったようです。その方は渡辺謙がカッコよく描かれていて、それが航空会社側の人間であるということが気に入らないという意見のようでした。その根底には人の不幸をネタにして儲けやがってという気持ちもあるのかもしれません。
「クライマーズ・ハイ」はその方にはどう移っていたのでしょうか。事故の発生には直接は関係ありません。ただ、地方紙としてあるいはその記者として、この大事故にどう関わるかという視点の映画で、被害者への鎮魂を前面に出しているわけでもないし、事故の再発防止を謳っているわけでもありません。むしろ、マスコミなんて仕事は、ちょっと偏見っぽく書けば、他人様の不幸や悲劇を根掘り葉掘り調べ、痛みを聞き出してセンセーショナルに報道するみたいなところもありますしね。
そういう生臭い話なんですけど、「クライマーズ・ハイ」(登山家の快楽)という視点を持ってきて、悠木が登山家であり、新聞記事を作り上げるという仕事を、登山のチームになぞらえているところが上手いし、それを職場の人々の支え合いだけでなく、親子に結び付けているのには泣かせます。
あのラストシーンで涙が出ました。焼きが回ったかな……。
映画:「沈まぬ太陽」〜劇場で
2009-11-03-Tue
見てきました。「沈まぬ太陽」。見ごたえ十分です。なんでも、四十何年ぶりに途中に休憩の入る映画だとか〜。長く感じたか? 全然。はっきりいって、休憩が入る映画の方がいいです! 観劇とかでは普通のことなんですよ。その休憩時間をつかって、落ち着いてトイレにもいけるし、ちょっとしたあらすじの整理もできる。「あそこどういうこと?」「あれすごかったよね」などと情報交換できるので、後半見る意欲にもつながります。
原作は山崎豊子。テレビドラマで有名な「白い巨塔」は有名なんですが、ま、ある意味同じような話でもあります。理想に燃える二人の男がいます。「白い巨塔」でもいたでしょう。腕のいい二人の医師が。今回は航空会社の将来を考える二人の若き社員であり、労働組合の委員長と副委員長だったりします。二人は協力して、よりよき職場を求めます。航空会社の使命そのもの、つまり安全な航空のために、職場環境の整備であり、待遇改善でもあります。しかし、次第に二人の理想は変わってきます。行天副委員長(三浦友和)は社内での出世を考えるようになります。会社の発展は、会社の利益であり、それは自分の利益みたいな考え方ですね。組合時代の「いい会社」「いい仕事」のイメージが変わって言ってしまうのですね。そういう医者財前教授が主人公でしたね、「白い巨塔」では。
「沈まぬ太陽」では、逆で誠実な人柄で、出世どころか報復人事、左遷の連続で冷遇された恩地委員長(渡辺謙)の方が主人公です。「白い巨塔」では医療ミスを隠そうとする大学病院の意向に背いて、正義を貫こうとする里見医師ですね。「白い巨塔」が大学病院を舞台にした医師の出世と医療ミスがモチーフであったのに対して、今回の部隊は航空会社、航空行政、そして航空機事故です。大学病院は数々ありますが、航空会社って日本にいくつもありません。名前こそ「国民航空(NAL)」なんてなってますが、実質国営ともいえる航空会社なんてJALしかありません。それに、全編を貫く航空機事故は、御巣鷹山に第123便ジャンボ機が墜落して、500人を超える死者がでたなんて、もう、1個しかないんですよね。
ですから、いくらフィクションですとエクスキューズを入れられても、誰しも日本航空を連想してしまうのです。だから、日本航空は「名誉毀損のの疑いがある」と警告文を送ったそうです。
映画の感想は、見ごたえばっちりです。
前半は、こんな調子で最後まで行くんだったら、なんかあれだなぁと思うのですが、きちんとクライマックスが用意されていますし、安易な解決もありません。ただただそこにあるのは、リアルな現実に、人がどう考え、どう折り合いをつけて生きるか……ということです。誠実に生きる。責任を持って生きる。逃げずに生きる。あきらめずに生きる。自分らしく生きる……。どういう言い方がいいか、それは人それぞれでしょうが、明日を信じて生きるってこともきっと言ってます。
長いですが、料金は同じです。ぜひ、スクリーンでどうぞ。
原作は山崎豊子。テレビドラマで有名な「白い巨塔」は有名なんですが、ま、ある意味同じような話でもあります。理想に燃える二人の男がいます。「白い巨塔」でもいたでしょう。腕のいい二人の医師が。今回は航空会社の将来を考える二人の若き社員であり、労働組合の委員長と副委員長だったりします。二人は協力して、よりよき職場を求めます。航空会社の使命そのもの、つまり安全な航空のために、職場環境の整備であり、待遇改善でもあります。しかし、次第に二人の理想は変わってきます。行天副委員長(三浦友和)は社内での出世を考えるようになります。会社の発展は、会社の利益であり、それは自分の利益みたいな考え方ですね。組合時代の「いい会社」「いい仕事」のイメージが変わって言ってしまうのですね。そういう医者財前教授が主人公でしたね、「白い巨塔」では。
「沈まぬ太陽」では、逆で誠実な人柄で、出世どころか報復人事、左遷の連続で冷遇された恩地委員長(渡辺謙)の方が主人公です。「白い巨塔」では医療ミスを隠そうとする大学病院の意向に背いて、正義を貫こうとする里見医師ですね。「白い巨塔」が大学病院を舞台にした医師の出世と医療ミスがモチーフであったのに対して、今回の部隊は航空会社、航空行政、そして航空機事故です。大学病院は数々ありますが、航空会社って日本にいくつもありません。名前こそ「国民航空(NAL)」なんてなってますが、実質国営ともいえる航空会社なんてJALしかありません。それに、全編を貫く航空機事故は、御巣鷹山に第123便ジャンボ機が墜落して、500人を超える死者がでたなんて、もう、1個しかないんですよね。
ですから、いくらフィクションですとエクスキューズを入れられても、誰しも日本航空を連想してしまうのです。だから、日本航空は「名誉毀損のの疑いがある」と警告文を送ったそうです。
折りしも、日本航空の経営再建が問題になっていて、日本航空のイメージは悪化する反面、映画のいい宣伝になってるって感じで、なんか、不思議と言うか、運命的を通り過ぎて、なにやら謀略みたいなものまで妄想しちゃいます〜。2008年12月、角川映画は、2009年秋公開として正式に映画化を発表した。角川ヘラルドに吸収合併された旧・大映の社員が奔走し、映画化にこぎつけたという。2009年2月にイランロケでクランクイン[2]。アフリカなどでの撮影も行われ、日本の空港シーンはタイの空港を利用して撮影した。飛行機のシーンは、日本航空の協力が得られなかったため、CGによって再現した。
『週刊朝日』によると、日本航空は映画化について、「ご遺族の中には映画化を快く思っていない方もいらっしゃる。すべてのご遺族の心情をきちんと汲んで欲しい」と映画化反対のコメントを出している[1]。また、日本航空から角川に対し「名誉毀損の恐れがある」と警告文を2度送っているという[1]。角川は「映画は全くのフィクション」であるとしている[1]。また、本編の最後には、フィクションである旨の但し書きが表示される。しかし、日本航空は自社の社内報の中で「『フィクション』と断っているが、日航や役員・社員を連想させ、日航と個人のイメージを傷つける」「作り話で商業的利益を得ようとする行為は遺族への配慮が欠けている」と再度批判しており、法的な訴えも辞さない姿勢を見せている。
→ Wikipedia:「沈まぬ太陽」
映画の感想は、見ごたえばっちりです。
前半は、こんな調子で最後まで行くんだったら、なんかあれだなぁと思うのですが、きちんとクライマックスが用意されていますし、安易な解決もありません。ただただそこにあるのは、リアルな現実に、人がどう考え、どう折り合いをつけて生きるか……ということです。誠実に生きる。責任を持って生きる。逃げずに生きる。あきらめずに生きる。自分らしく生きる……。どういう言い方がいいか、それは人それぞれでしょうが、明日を信じて生きるってこともきっと言ってます。
長いですが、料金は同じです。ぜひ、スクリーンでどうぞ。
第61回正倉院展で琵琶を見る〜奈良国立博物館
2009-10-30-Fri
先日やっといくつかの多忙な事情が一段落し、ふっと時間がとれましたので、奈良国立博物館で開催中の第61回正倉院展に出かけてきました。
→ 正倉院展の公式ページ
愛知県はクルマの町豊田があるおかげで、高速道路も整備されておりまして、朝8時前にこちらを出ますと、平日ですと、道路事情にもよりますが2時間余りで奈良に着くことができます。
公式ページによりますと、正倉院展開催中は休館なしで、しかも金〜日曜日は午後7時まで開館しているということですが、なにぶん大混雑が予想され、道路の面でも、会場でのことを考えても、なんとかウィークデーに行けたらいいと思っていましたが、いろいろなやりくりがうまくいき、ふっと平日に時間がとれたのです。しかも、温かな、まさに小春日和と呼ぶにふさわしい日でした。
しかし、驚いたことに、最寄の駐車場はすでに満車、国立博物館を春日大社側にやりすごし大きく右に回ってしばらく進んだ兼営駐車場におかなければならないほどでした。徒歩15分……。土日でしたら、ここも満車だったかもしません。さらに、博物館には入管制限があり、15分待ちの行列でした。平日に言って正解とういべきか、平日でもこんな具合なんだと驚きました。
日本史について、はっきりいってわたしは詳しいほうではありません。いろいろ読んではいるのですが、ちっとも頭に入らないということもあって、正倉院がシルクロードの東の終点というようなことはわかっていても、あとは校倉造りだとか、そんな言葉しか思いつきません。
→ Wikipedia:「正倉院」
だから、歴史的に意義あるものを見るというよりは、美しいものや素晴らしいものを見るという、そういう感覚で見に言ったのです。いくつも目玉があるのでしょうが、わたしが回った印象で、一番印象に残っているのは、「紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)」です。これは「平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)」と並んで、今回の中心的展示でしょうが、これが楽器というところが、非常に不思議でした。琵琶というと琵琶法師しか思いつかないわたしには、どんな演者がどんな衣装でどんな曲を弾いていたのだろうかというのが、大いなる謎でした。
だって、そうでしょう。全く鳴りもしない形ばかりが琵琶で、見てくれだけが豪華な楽器……。そんな楽器が意味があるでしょか? 演奏するために作られたものでなければ、それはそもそも楽器ではなく、楽器に似せたオブジェとか小道具とかでしょう。音色のよさや、演奏のしやすさを追求していけば、見事なまでの装飾は蛇足も蛇足、むしろ邪魔もの以外の何ものでもない、そう考えるとここまでする意味は何? と思われてしまうのでした。もっとも、音楽鑑賞自体が一部の選ばれた人の、贅沢な娯楽であったときに、演奏を楽しむ側から見れば、見た目にもすばらしい楽器からきれいな旋律が流れてくることは、格別の意味、それは至福の時間であり、貴賓を接待するときなどには大いなる意味があったtも思われます。琵琶である以上は少なくともそこそこの音色を奏でなければ、そして、それが宝物であるからには並々ならぬ音色でなければならないはずだと思うのですが、楽器としてのできばえはどうなんでしょうか。
イヤホーンガイドからは「番假祟」という曲を流してくれていました。なんでも正倉院から発見された世界最古の琵琶の楽譜だそうで、天平19年(747年)の日付けのある写経所の書類の裏に書かれていたそうです。全体に、鹿の角だとか象牙や貝がらなどで、精緻なまでのモザイク画が施され、演奏の際に撥(バチ)があたる部分(「捍撥(かんばち)」というのだそうです)には、虎狩をする馬に乗る人々や、宴会をする模様が描かれている……この贅沢な琵琶から、こんな地味な感じの曲が流れていたとは、なんとなくギャップを感じていました。
→ 正倉院展の公式ページ
愛知県はクルマの町豊田があるおかげで、高速道路も整備されておりまして、朝8時前にこちらを出ますと、平日ですと、道路事情にもよりますが2時間余りで奈良に着くことができます。
公式ページによりますと、正倉院展開催中は休館なしで、しかも金〜日曜日は午後7時まで開館しているということですが、なにぶん大混雑が予想され、道路の面でも、会場でのことを考えても、なんとかウィークデーに行けたらいいと思っていましたが、いろいろなやりくりがうまくいき、ふっと平日に時間がとれたのです。しかも、温かな、まさに小春日和と呼ぶにふさわしい日でした。
しかし、驚いたことに、最寄の駐車場はすでに満車、国立博物館を春日大社側にやりすごし大きく右に回ってしばらく進んだ兼営駐車場におかなければならないほどでした。徒歩15分……。土日でしたら、ここも満車だったかもしません。さらに、博物館には入管制限があり、15分待ちの行列でした。平日に言って正解とういべきか、平日でもこんな具合なんだと驚きました。
日本史について、はっきりいってわたしは詳しいほうではありません。いろいろ読んではいるのですが、ちっとも頭に入らないということもあって、正倉院がシルクロードの東の終点というようなことはわかっていても、あとは校倉造りだとか、そんな言葉しか思いつきません。
→ Wikipedia:「正倉院」
だから、歴史的に意義あるものを見るというよりは、美しいものや素晴らしいものを見るという、そういう感覚で見に言ったのです。いくつも目玉があるのでしょうが、わたしが回った印象で、一番印象に残っているのは、「紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ)」です。これは「平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)」と並んで、今回の中心的展示でしょうが、これが楽器というところが、非常に不思議でした。琵琶というと琵琶法師しか思いつかないわたしには、どんな演者がどんな衣装でどんな曲を弾いていたのだろうかというのが、大いなる謎でした。
だって、そうでしょう。全く鳴りもしない形ばかりが琵琶で、見てくれだけが豪華な楽器……。そんな楽器が意味があるでしょか? 演奏するために作られたものでなければ、それはそもそも楽器ではなく、楽器に似せたオブジェとか小道具とかでしょう。音色のよさや、演奏のしやすさを追求していけば、見事なまでの装飾は蛇足も蛇足、むしろ邪魔もの以外の何ものでもない、そう考えるとここまでする意味は何? と思われてしまうのでした。もっとも、音楽鑑賞自体が一部の選ばれた人の、贅沢な娯楽であったときに、演奏を楽しむ側から見れば、見た目にもすばらしい楽器からきれいな旋律が流れてくることは、格別の意味、それは至福の時間であり、貴賓を接待するときなどには大いなる意味があったtも思われます。琵琶である以上は少なくともそこそこの音色を奏でなければ、そして、それが宝物であるからには並々ならぬ音色でなければならないはずだと思うのですが、楽器としてのできばえはどうなんでしょうか。
イヤホーンガイドからは「番假祟」という曲を流してくれていました。なんでも正倉院から発見された世界最古の琵琶の楽譜だそうで、天平19年(747年)の日付けのある写経所の書類の裏に書かれていたそうです。全体に、鹿の角だとか象牙や貝がらなどで、精緻なまでのモザイク画が施され、演奏の際に撥(バチ)があたる部分(「捍撥(かんばち)」というのだそうです)には、虎狩をする馬に乗る人々や、宴会をする模様が描かれている……この贅沢な琵琶から、こんな地味な感じの曲が流れていたとは、なんとなくギャップを感じていました。














